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解釈あるいは擬人化の功罪

前提

 前の記事に関連して。

 ヒトは、人体ないし生命の有限性に起因する不可分な要素として、解釈する、擬人化する思考を行おうとする。そういう前提のもとで、その功罪について考えてみる。

 その前に、タイトルで「あるいは」という言葉で併記している解釈と擬人化の関係性について書いておく。

『解釈をする、という機能が実質的に行っている方法が、擬人化である。』

※比喩と表現することもできなくはないが、比喩ほど自由なものではなく、主体が常に自分の側にあるという意味を重視して擬人化の語を使用している。

 上の記事で、解釈を「自分の思考上に限り正しい理解を行う行為」と書いたように、自分の知識や経験など既知の情報をもとにした比喩として、対象を認識することが解釈であり、その状態が擬人化である。


 功、即ち良い点は、ほぼ無意識に実行されている当たり前のことであり、なかなか意識することはないかも知れない。解釈は不足部分の補完として機能する。結論を出すことができない問題に対して、その解決を仮定することで次の対応を始めることが可能となる。確実なものを積み上げるアプローチではなく、全体像に対してフォーカスを合わせていくようなイメージだ。例えば、コンビニに行く途中の道端にバナナの皮が落ちており、うっかりそれを踏んづけて滑ったとしよう。漫画みたいにバナナの皮で滑ったのは初めてだから何の対処もできないズルべちゃぁぁ……とはならない。類似する経験が引用され、とりあえずなんとかしようと身体が反応するだろう。そして、あぁ小さい頃に河原で苔むした石で滑った経験が生かされたな……などといった解釈が為される。(ここまで書いといて身体制御だと反応が含まれて言語化しにくいので例えが適切でない気もしてきたが)この場合は、足が滑るという状態が抽出されている。つまり、類似性から導かれた全体像の把握によって、まだ知らない、あるいは気づいていない構造を認識できる可能性がある。もちろん、それにはある程度の精度が必要なのだが。


 罪、即ち悪い点は、多くある。1つ目は、無意識に実行されることだ。完全な制御下にはないため、解釈はある種の確信を伴う。自分の解釈が自分の経験や知識に偏向していることに気付くのには訓練が必要と思われる。2つ目は、確実に誤差があるということだ。解釈が外れている可能性は常にあり、理論化された理解と比較すると確実に品質が悪い。3つ目は、解釈に飲まれる可能性があることだ。解釈をもとに解釈することも当然にできる。外界と乖離し続けた一連の物語は、時に実態とは似て非なる世界観を構築する。それに依存した状態になった場合には、さてどうなるのでしょう。

まとめ

 よし、ここは解釈をしよう。ここは解釈するのはやめておこう。なんて制御できる人はかなり特殊な部類と言えるだろう。とはいえ、解釈の不完全性はある程度、認識しておいても損はないはずだ。飛ばしたほうが理論が飛躍的に進む可能性はあるが、誤差が広がり続けると、帰ってこれなくなる。系としては、解釈と観察を交互に行ってほどほどの距離感を保ち続けるのが健全と言えるのではないだろうか。

追記:漫画家や小説家などのクリエイターにクリティカルな思考の持ち主が多く居るのは、解釈をオン・オフする場数を多く踏める環境であることに起因するのかも知れない。

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