【#142】確かなもの(義母との同居6)
前々回と前回の続き
まさか自分がコロナ陽性になるとは、思ってもいませんでした。几帳面な妻と共に生活していること、陽性になった方と密接になった覚えもないこと、それなりの感染対策を続けていたということもあります。なる時にはなるんだなあ、そしてなってみないと分からないことがいろいろあるなあと感じています。
お義母さんの様子
私たち二人だけの生活だったら、ある意味、何とでもなるのですが、90歳のお義母さんに対して「絶対にうつしてはいけない戦い」がそこにあったのです。
不思議なことですが、私から妻にうつったことを確認してから、私はどんどん回復し、妻はどんどん悪くなっていきました。そういう中で私の外出制限期間の目安も過ぎ、今までは妻とお義母さんが一緒に食事をし、私は別室で一人だったのですが、今度は私とお義母さんが一緒に食事をし、妻が別室となりました。
食事も私一人なら、男料理の炒めものなどで、どうにでもなります。しかし「漁師の娘」と自認するお義母さん。「何でもいいよ」と言われますが、そういうわけにはいきません。普段、料理をしない私。計量カップを見つけるのにも時間がかかります(結局、何かの出汁が入っていて冷蔵庫にありました)。忙しい時には買ってきたものを並べるなどして何とか対応しました。(TOP画像は8/26の夕食)
お義母さんの祈り
ある時、私がお義母さんに「祈りますよ〜」と、食前のお祈りをして食べ始めていました。するとお義母さんは、漢方薬を溶かすなど薬の準備などをした後、食事の前にもう一度、手を合わせて何やら祈り始めたのです。
さっき私が食前のお祈りをしたことを忘れられたんだなあと思い、「お義母さん、先ほど私が食前の祈りをしましたよ」と言いました。「あら、そうだった」と笑いながらの返事を予想していたのですが、お義母さんは真摯な顔をしながらこう言われました、「いやあ、正子ちゃんが早く治るようにとイエス様にお願いしました」と。
正確に言えば、お義母さんの娘・私の妻は、正子ちゃんじゃなくてY子なのですが、どうしてもそこの記憶は怪しい時もあるようです。しかし何歳になっても母が娘を思う愛は怪しくありませんでした。そして、主なる神に祈らずにはおれないという信じる心も怪しくありません。さらに主が癒してくださるという希望も全く怪しくありません。
お義母さんが「正子ちゃん」と言うと、いつもは「お義母さん、正子ちゃんじゃなくて、Y子ですよ」と、私は優しく訂正します。しかしそんな私の正しさなんて吹けば飛ぶような軽いものです。たとえ娘の名前の記憶が怪しくても、娘を思う母の思いは、信仰、希望と一つになって確かなものなのですね。
さあ、明日は主日礼拝です。神の愛(アガペー)は、母が子を思う愛のようだと言われます。大きな主の愛に包まれて、心からの礼拝を捧げます。
今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。
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