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【#37】 燭火礼拝(メッセージの断片集12)

今年最後の主日礼拝

 先週末から日曜日にかけて、オホーツク地方が大荒れとなりました。紋別全域では2度の停電がありました。その様子は木曜日の記事でお知らせします。北見も「こんなに重たい湿った雪が12月に降るなんて」という積雪の中で迎えた12月25日(日)。今年最後の日曜日がちょうどクリスマスと重なったということもあり、午前から電気を消して燭火礼拝(キャンドルライトサービス)の時を持ちました。

 レギュラーメンバーの他に、誘われて初めて集った中学生、2週連続で集われたKさん、一番後ろの席でしっかりと救い主を見つめられていたMさんなど、それぞれの1年を思い起こしながらの礼拝でした。Tさんが主イエスを信じた時のことを証ししてくださり、Y君がオリジナルの賛美を心を込めて歌ってくれました。

 北見よりも雪深い留辺蘂のMさんは、「暫く雪まみれ」という連絡が画像と共にありました。ライブ配信で礼拝を捧げられた皆さんにも、きっと大切なものが届いておられることと思います。

 礼拝後は少し早いのですが、クリスマスの飾りをみんなで協力して片付けました。次の日曜日は元旦になるからです。(以下はメッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックすると、250字のメッセージのエッセンスを読むことができます。

No Praise, No Life

 Tレコードのキャッチコピー「No music, No life.」。音楽のない人生なんてあり得ないということでしょう。Japanese Englishだと思いますが、"No~, no life"という表現がいろいろあります。「No game, No life」「No meat, no life!」「No cat, no life」「No dog, no life」「No friend, no life」「No you, no life」などなど。「No〜, no life」皆さんだったら、何が入るでしょうか?

 今年のクリスマスは「ザカリヤ讃歌」(ベネディクトス)から恵みを分かち合っています。ザカリヤにとっては、「No praise, no life」賛美のない人生はあり得ないというぐらい、高らかに主を賛美しました。ルカ1章の前半では、神の言葉を信じきれなくて、言葉が話せなくなる沈黙がありました。その後、我が子が誕生し、信仰に立って「ヨハネ」(主は慈しみ深い)と名付けたその時、ザカリヤは聖霊に満たされて預言の賛美を主に捧げずにはおれなかったのです。

 クリスマスに、私たちはどうして賛美を歌うのでしょうか? それは、救い主が来られたからです。父なる神は、救い主を遣わされるほどに、私たちを愛しているから、私たちも賛美が溢れてくるのです。

No Light, No Life

 紋別で停電になった時、ちょうどクリスマスの時期だったので、探すまでもなく神学生はすぐにロウソクを見つけることができました。停電の中で、1本のロウソクがあるのと無いのとでは大違いです。1本あるということ、どれだけ見えることでしょうか。

 もしこの世界に光が無かったら、どんな世界になったことでしょうか。光の無い世界。闇しか無い、夜しか無い、星も瞬かない、もし朝が来なかったとしたら・・・それは「No light, no life」、光がなかったら生きていけないのです。だから聖書の一番最初のページ、天地創造の1日目、父なる神は「光あれ」と言われたのです。

 闇しか無いと思っていたところに、私たちの神は光を造り出してくださるお方なのです。もちろん闇の力や、心を曇らせる虚しさもあります。この1年、もしかしたら消しゴムで消せない私の黒歴史のようなものがあるかもしれません。しゃがみ込むしかない、もう無理だ、そんな闇と思うところに神は光である主イエスをわざわざ遣わしてくださったのです。しゃがみ込む私たちの手を取り、光である主イエスは私たちを引き上げ、励まし、立たせてくださるのです。

▲ 教会前のアパート。5台分の駐車場を教会が借りています。(2022年12月23日)

No Peace, No Life

 「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」とザカリヤは歌いました。平和の道に導くというには、ずっと歩いていくとゴールに平和があるということではありません。道というのは、平和に辿り着く道路ではなく、生き方のです。いつか辿り着く道ではなくく、平和の君である主イエスが共に歩んでいく時、平和という道を歩んでいくことができるのです。

 平安を与えてくださる主イエスを小さくしてしまう時、心がざわめき、恐れに支配されます。同時に人と人との関係も平和でなくなります。「No peace, no life」、平和がないと、主イエスが与えてくださる平安がないと、本当の意味で生きていくことはできないのです。だからこそ、主イエスは何度も何度も「平安あれ」と言われ、私たちに平安の実を与えてくださるのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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