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【#19】 「でも」は要らないのです(メッセージの断片集6)

 11月13日(日)の主日礼拝は、紋別の教会とzoomで結んでの合同礼拝でした。前の週に神学生がインターンシップ実習のために紋別に派遣されたということもあり、まず第1週目は礼拝の様子や流れを実際に体験してもらいました。次週から、司会もメッセージも含めた礼拝奉仕をしていただくことになっています。

 先週(11/6)の北見の礼拝は、里帰りをされている方々、お仕事や体調不良の方々もおられました。もちろん主が礼拝者の真ん中におられるのですが、それでも私は少し寂しかったのです。(妻は「北見に来た最初の頃は信徒が一人だったことを思うと、その十数倍はいると思うと・・・」と、さすがの信仰者ですね)この日(11/13)の礼拝は久し振りの方々もおられ、とっても賑やかでした。共に声を合わせ、心を合わせ、賛美と祈りを捧げ、主の御声を聞き「アーメン」といえる幸いを味わいました。

 礼拝後はすぐに、クリスマスの飾り付けをしました。アドヴェントは11月27日からなのですが、来週の日曜日の午後は出かける用事もあるので、この日にツリーを出し、イルミネーションなどを飾りました。2022年のアドヴェント・クリスマスにも、今年だからこそという特別な主の恵みが備えられていることでしょう。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

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信頼関係を大切にする

 この世には不正があり、人を騙すことが当たり前のようになっているので、誓い(誓約書など)が必要となります。もし裏切りや嘘、手の平を返すことが無ければ、誓いは必要ではなくなるでしょう。偽りがあり、不誠実なものがある社会の中で「真実に生きる」とは、「私はあなたを信頼している」という信頼関係に生きるということです。

 また本当の信頼とは、相手が裏切らない、完璧な人だから信頼できるということではありません。人間は不完全です。間違いも犯します。言っていることと行っていることが違ってきます。むしろそういう時こそ、真の信頼関係が育まれていくのです。「私はあなたを赦し、信頼します」と、本当の信頼関係とは、赦しを含んでいるのです。

神の思いに正直になる

 「『はい』を『はい』、『いいえ』を『いいえ』としなさい」とは、自分がやりたいことは「はい」、やりたくないことは「いいえ」ということではありません。それは自分の思いに正直になるということで、簡単に言えば「わがまま」で自己中心ということです。

 大切なことは、神の思いに正直になるということです。神が「ノー」と言われることには「ノー」と言い、神が「イエス」と言われることは、喜んで「イエス」と言う姿勢を持つということです。私の思いよりも神の思いの方が広くて深くて高いから、また神の思いは愛だからという神への信頼がある時、神の思いに正直になって「はい」と言えるのです。 

 さらに言えば、「はい」の後に「でも・・・」を付けなくてもいいのです。「はい、私が間違っていました。でも、あの人もひどいですよね」という、その「でも」は要らないのです。「はい、悔い改めます。でも主よ、仕方がなかったんです」、その「でも」も要らないのです。「はい、主よ信じます。でも、目の前の状況は厳しいので無理です」のその「でも」も必要ないのです。 
 
 私たちはその「でも」が無いと、何だか自分の立場が無くなるように感じるものです。しかし実はその「でも」こそが、言い訳となり、つぶやきとなっていきます。いつまでも「でも」を引きずっていると、信仰の命は萎んでいきます。「はい、主よ、あなたを信じます」「はい、主よ、あなたを愛します」と、主なる神の思いに正直に従っていく力を、聖霊によっていただこうではありませんか。いや、従っていく時に、聖霊の力は豊かに注がれていくのです。

今日も主の恵みと慈しみが追いかけてくる1日でありますように。

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