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【#223】私たちの代わりに(メッセージの断片集70)

3月17日(日)の様子

 妻が紋別へ出かけているということもあり、Aさんに奏楽奉仕をお願いしました。繊細さと大胆さ、何よりも信仰が土台にある奏楽で、祈りの時の奏楽も祈りを奏でてくれていました。

 K君が大学院を卒業するということもあり、横浜からお父さんが来られ、礼拝をご一緒しました。K君が洗礼を受けた時のお父さんの挨拶の言葉を忘れることができません。その時の様子は、下記にあります。

 午後からは、オンラインによる教区の研修会でした。私が責任を持っている研修会で、理事長が講師でした。多くの資料があり、内容が豊か過ぎて、しかもアドリブを賜物とする理事長です。時間通りには終わらない可能性大だったのですが、最後の質疑応答を削るだけですみました。夏にも北海道に来てくださるので、質疑応答はその時にという感じですね。厳しい冬を乗り越えつつある教区の皆さんのお顔を拝見できて嬉しかったです。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックすると、メッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

悪や罪は、人を縛る

 主イエスが汚れた霊を追い出した時、多くの豚の群れに入り、崖から湖になだれ込んでいきました。大きな悪の力で男性は縛られていたのです。動物は自殺しません。人間だけが自ら命を断つことがあります。しかしそれは本来の人間の姿ではありません。真の神、愛の神から離れることを、罪と言います。神から離れて罪や悪に生きると本来の生き方ができなくなります。愛して、赦して、和解していけばいいと分かっているのに、そうできなくて裁いて、批判して、責め合います。心も身体も魂もぼろぼろになり、まるで墓場のような生き方となります。本来、動物がしないことを強いるほどに、悪や罪は人を滅びに向かう力で縛るのです。

主イエスは、悪や罪から解放を与える

 「いと高き神の子」、あまりにも高くて、最も聖なるお方が、一番低くて汚い十字架につけられたのです。それこそ墓場まで、そして陰府(よみ)にまで降られ、どん底まで主イエスは降られたのです。それは私たちの身代わりとなって、悪や罪や罰をその身に背負われ、私たちを救い、解放を与えるためです。

 もうどん底のような思いをもたなくてもいい、自分を傷つけなくてもいい、人を傷つけなくてもいい、墓場のような生き方をしなくてもいい その痛みを、罪を、恨みも、後悔も、全部主イエスが背負われたのです。もう人生を恨む叫び声をあげなくてもいいのです。主イエスが「どうして私をお見捨てになるのですか」と私たちの代わりに叫ばれたのです。主イエスが代わりに見捨てられたから、私たちは見捨てられない人生を歩むことができるのです。

 今、縛られている罪、自分ではどうすることも出来ない思いはないでしょうか。主イエスこそが、身代わりとなってその罪を悪、そして痛みや呪いを背負われたのです。その主イエスこそが、この男性にされたように、全ての罪から私たちを解放するのです。墓場と思うところを、神の国に変えてくださるのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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