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【#265】白黒はっきりつけるよりも(メッセージの断片集86)

6月23日(日)の様子

 上記のTOP画像は、先週の祈祷聖会で訪れた浜名湖です。「ちょっと失敗したなあ」と思ったことは、「使徒Acts 28:20」の御言葉を左寄せにしてしまったことです。左下にベンチがあるので、バランスが良くないですね。気づいた時には、皆さんが集まって来ていたので、「あ、いいかあ」とそのままにしました。

 礼拝では浜名湖の祈祷聖会に出席された2名の方に、証しをしてもらいました。1人はわざわざ浜名湖まで出かけて現地参加したK君、もう1人は家庭と教会とでオンラインで参加して祈られたSさんです。両人とも主なる神からのものを受け取られて感謝です。またこの日、前日に入籍されたMさんたちを祝福してお祈りをしました。Mさんの顔が幸せそうで、嬉しくなってきました。

 夕方に清里町でオホーツクブランチ礼拝がありました。このことはまた記事を改めて紹介します。8時半ぐらいに帰ってきたら、お義母さんが「難しいなあ」と言われながらも、一生懸命に大河ドラマをご覧になっていました。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

隣人を責めない

 パウロの思いは、同胞を責め立てるのではなく、一緒にキリストを信じ、救いの道を歩むということ、それがパウロの希望であり願いでした。だからこそ自分のことを悪く言われようが、ひどい仕打ちにあおうが、それでも同胞のユダヤ人を責め立て、訴えるようなことはしなかったのです。どっちが間違っているか、正しいか、白黒はっきりつけたいということではなく、赦すこと、愛することを選び取っているのです。それは主イエスの通られた道なのです。

相手の話を主と共に聞く

 「この宗派」という言葉があります。ユダヤ教の分派・セクトであり、キリストを信じる人々は、ユダヤ教の本流から脇にそれているといことです。本当は、旧約聖書はメシアであるキリストによって成就し、完成するので、キリストを信じることこそ本流なのです。しかしユダヤ人たちは自分の思いこそ正しいと思い込み、本来待ち望んでいるキリストを分派として隅に追いやっていました。思い込みは罠となり、真理から遠ざけます。

 私たちクリスチャンもクリスチャンなのに、キリストを隅に追いやっていないでしょうか? クリスチャンで無い人の話を、その気持ちを本当の意味で聞いているでしょうか? クリスチャンの自分の方が真理を知っている、正しいとして、一段上に立って、本気で相手の話を聞いていないことはないでしょうか? もしそうであれば、私たちはキリストを隅に追いやり、小さくしてしまっていることになります。なぜなら最も正しくて真理であるお方が、一段上に立ってではなく、私たちのすぐそばに来てくださり、どん底にまでくだられ、寄り添ってくださるからです。

 サタンや悪の霊は私たちの肉の思いに働きかけ、分派分裂を作り出していきます。しかし聖霊はキリストの心を与え、御霊による一致を与えてくださいます。私たちはキリストの心をいただいて、主と共に相手の話を聞くことを大切にしたいのです。相手を理解しようとし、その人の話を聞くところに、希望が生まれてきます。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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