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20歳の誕生日が祖父の命日になった話

20歳の誕生日に祖父が亡くなったんです。

ちょうど1年前のことです。


ああ、そんな暗い顔しないでください。
安らかだから。ね〜。


な、んだろう。稀な体験をして、うーん

色々と考えるきっかけになった出来事だから
忘れてしまう前に残しておきたいなと。
あと亡くなった数日後、どう整理をつけたらいいのか分からず右往左往してたら

“いつかどこかで、
誰かがきっと、
あなたと同じ悩み抱いてた。
あなたが悩んでいることは、
いつか誰かが悩んだ悩み”

三谷幸喜,ミュージカル『日本の歴史』

の歌がよぎって
ネットで20歳の誕生日に親族が亡くなった時の心情変化とかが記された論文やら記事を探しまくったんだけど。
いやー見つからないこと見つからないこと。
記事はまだしも論文とは、って感じだね笑
ピンポイントすぎるけど、インタビュー調査とかね、あってもいいなと思って。

だから、いつかどこかの誰かと出会うために
書きたいなの気持ち。
もちろんこれから書くことが絶対ではないし、テキトーなことばっかりかも知れないけど
同じ悩み抱いているかもしれないってだけで少しは楽になることもあるとかないとかあるとか。

死は宗教的なことと隣り合わせで
私が考えてることは何らかの宗教の考え方に則ってるかもしれない。則ってると思う。
少しは影響受けてる、知らないところで。宗教だけじゃなくて学者の理論とかも。
でもレポートじゃないから出典とか気にせず、もっと自然に自由に、それも含めありのままを書くぞの回



6月19日
緊急搬送されてこの日だけ一族みんなが面会出来た。
意識はない状態だった。
すごく心地よさそうな表情だった。
綺麗だった。
お昼寝してるみたいだねが全会一致の感想だった。

1週間ほどが山場で
以降は小康状態が何年も続くかも知れないけどそれは誰にも分からない
本人の生命力次第

との事だった。


6月27日
梅雨が明けた。


6月29日
私は朝からお仕事で、その後大学に行き
友人らとチーズケーキを食べてわいわいした。
すごく暑い日だった。
一族のグループラインではみんなからお祝いの言葉と小躍りしてるスタンプが届いていた。
私は大学の帰り、家族で食べる用にケーキを買った。お気に入りのお店のフルーツタルト。今日だけはいくつケーキを食べたっていい。
20歳の誕生日に相応しい、充実した1日だと幸せを感じながら電車に乗った。
ケーキが入った紙袋を水平に保ちながらスマホを開いた。

すごく淡白な、無駄のない文字列だった。
私はグループラインで父から送られてきた、そのメッセージで祖父が亡くなったことを知った。
ひとつ上のスタンプはケーキを持っている。

私は今日1日何をしていたんだろう。
このケーキは誰のために食べるのだろうか。
喜ばしいことなんてない。
電車の中で声を殺して泣きながら、この紙袋はどこかに捨てて帰ろうと思った。
でも駅にゴミ箱はないし
実際に捨ててしまえる勇気があるわけもなかった
一気に重く感じられるケーキを、それでも当たり前のように水平に保ちつつ
止まらない涙には対応できず
帰宅した。
知らなかったからどうしようもないんだけど、時間的に亡くなってからケーキを買ってしまったみたいだった。
とにかくこのケーキから逃れたくて
冷蔵庫に入れ、そこから最も離れている自分の部屋にこもった。
泣き疲れてそのまま眠ってしまった。

両親が帰宅すると私を起こしてケーキはどうするのか聞いた。
食べないよりの曖昧な返事をしたが
なぜだか食べることに積極的な両親に促され
とりあえず我慢して食べることにした。
何度も溢れそうになるのを堪えながら
暗い気持ちで食べてたら
やっぱり祖父の話になった。

面白エピソードばかりでてくる。
祖父がケーキを背中側、三角形の鋭角じゃない方から食べて
バランスを崩して必ず倒すのは今日のためだったのかもしれない。
すごく救われた気がした。
父も笑いながら、でも目頭を抑えながら
色んな楽しい話をした。


親戚は
祖父はおめでとうと言われたかったんだね
と言っていた。
言葉のインパクトが大きくて誰が言ったのか忘れてしまったけれど。

そうだ、生きるも死ぬも相対的だ。
どこから見て生まれて、どこから見て死んでいくのか。
おめでとう。が言えないことなんてない。



祖父は6月29日を選んでくれた。
20歳という節目まできっかり。

見守ってくれるなら、見守っていて楽しいように生きようと心に決めた。
自分をまるごと大切にしながら生きることは、
そのまま自分のルーツも大切にすることになる。
日々を丁寧に過ごす。
どんな供養も意味がない訳ではないだろうが
私にはむしろこの方法しかない気がした。


1年経ってまたあれこれ考えてみた。

日本では冠婚葬祭や通過儀礼の定期的にやってくるであろう儀式は
儀式としては同じくくりだけど方法は全く異なる。
人の誕生を祝うように人の死を弔うことはない。

しかし、どこかの部族はどんな儀式も儀式であれば全く同じ方法で行う。
そこに心情的な違いはあるのかもしれないが、同じ目的を達成するために同じ儀式を行う。
死の世界に入って生まれ変わり、宇宙の根源を見る経験をする、という目的らしい。
なんて万能な目的なんだ。

どんな出来事でもそこから得られる大切なことにさほど違いはない。
感情はなんであれ、節目という表向きなことは結局同じである。
誕生日も命日も同じだ。いのちの日。
そんなことを気づかせてくれたこちらの部族には感謝の気持ちでいっぱい。



そもそも“日付”なんてものは生まれるとか死ぬとかの次元においてはお飾りにすぎない。
人間が天体を測量して勝手に区切りを作って1年、1日を誕生させただけ。
感覚的に無限に続く時間と空間の中で起きた出来事ということ。以上。
本来なら日にちなんてどうでもいいものである。深い意味はない。



でもやっぱり私は選ばれたと思いたい。
同じ日ということに意味があると信じたい。

1年、成長出来ているのか分からない。
日々を丁寧に過ごすことの達成割合は恥ずかしながら低い。
中高の友人らから最近の様子何も知らないと言われた
たぶんなにも更新出来てない、不甲斐ない


でもこうして立ち返ることが私にとって重要なんだと思う。
変わらないこと、変わるべきこと、変わられたこと、変わってしまったこと
挙げたらきりがない。それでも。


今年も1年前に買ったお気に入りのケーキを食べた。

おめでとう。
素敵な日。



では、ごきげんよう。

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