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センターポールアスリートとの出会い⑪ 若いのに仙人 三元大輔

当時はパラアルペンスキーの三澤拓選手、パラアイスホッケー含め、マルチに活動する堀江選手、車いすバスケットボールの石川選手、篠田選手をサポートさせて頂いていました。

今回は堀江さんから新たに紹介してもらった選手についてお話します。
前回までのお話はこちらです。

パラアイスホッケー日本代表 ソチパラリンピック出場を逃す

パラアイスホッケーのソチパラリンピックに臨んだ、堀江航選手でしたが、前回大会での銀メダル獲得チームである日本は最終予選4位でパラリンピックの切符を得ることが出来ませんでした。

帰国後、堀江さんは「次は四年後か~長いな」と、ぼやいていました。
それはそうです。当時堀江さんは34歳。4年後は38歳。若手選手が台頭してくる海外勢と戦うには少々体力面でも厳しいはずです。

「ま、ゆっくり考えます」と堀江さんは、痛めていた肩の治療やホッケー以外の様々なスポーツの活動をしていました。

格闘技が好きな堀江さんは、この時期を利用してブラジリアン柔術というスポーツを始めたそうです。
CARPEDIEMという道場で、堀江さんは道場名の由来である”今を生きる”という言葉に惹かれたそうです。

柔術を始めた堀江さんですが、夏のシーズンは毎年、”車いすソフトボール”という種目にも選手として活躍していました。
というのも、車いすバスケットボールでアメリカ留学時代、オフシーズンに他の種目を行う選手が多いようです。クロストレーニングと言い、別スポーツを取り入れるトレーニングで、
複数種目行う事で全体的なパフォーマンスの向上が見込まれるトレーニングだそうです。

堀江さんはかつてオフシーズンにプレーしていた車いすソフトボールを日本に持ち込み、日本でも全国大会行われるほどの規模になっていました。
毎年北海道で行われる全国大会で、私は新たに選手を紹介して貰うことになっていたのです。


アメリカにいる仙人

正確に言うと、その新たに紹介して貰う予定であった選手とは、北海道で会う以前に既にやり取りはしていました。
その選手は、アリゾナに車いすバスケットボール留学をしており、テレビ電話でやり取りでした。
単独で海外留学するとは、肝が据わっています。更にはその選手は元々英語が話せたわけでなかったそうです。
「チャレンジする姿勢はすごい。」そう思いながら、テレビ電話を始めたのでした。

その選手の名前は”三元大輔”選手。滋賀出身の24歳。私の2歳年下です。
大輔選手の話し方は24歳と思えないくらい落ち着いていて丁寧な言葉遣いでした。少し話をしただけで好青年で爽やかというのが分かります。
しかし、画面上に映る姿はとても好青年で爽やかではありません。
画面に映っているのは立派な口髭、顎鬚、頬髭を蓄えている仙人でした。
しかも、なぜか画面が薄暗い。
一応アメリカでの日中の時間で設定したはずですし、夜でも電気付けるはずです。
何故画面が暗いのか尋ねると、
「部屋には照明をつけていなく、トイレの照明からこぼれる光で電話をしています。」とのことでした。

凄く性格が良いのは分かりましたが、同時に”凄く変な奴”というのも分かりました。

北海道で仙人と対面

毎年、北海道で行われる車いすソフトボールの日本選手権に仙人も大学の長期休みを利用して参加するそうです。
大会の前日に仙人とはホテルのロビーで会うことになり、堀江さんが連れてきてくれました。

「初めまして三元大輔です」

今度は、照明がある場所で会えたので、顔もハッキリわかります。
顔の半分は髭で覆われていますがイケメンです。
大輔選手は車いすで、クリーム色のラルフローレンのセーターを着ていて、私は「お洒落だけど車いすで、白いセーター汚れないのかな」と思いました。
これが私と大輔選手との出会いです。

単独での海外挑戦

大輔選手は、滋賀県大津市出身で高校生まではサッカーをしていたそうです。しかし、18歳の頃に癌が見つかり、抗がん剤を使用した治療の副作用で股関節の機能を一部失い車いすでの生活となったとのことでいした。

大輔選手は癌宣告されたときは「人生が終わった。。。」と思ったそうですが、担当の先生が「今は治療方法もあるし、戦えば癌に勝てる。一緒に勝ちましょう。やれることだって沢山あります。」と勇気づけられて癌を克服したと教えてくれました。

大輔選手は、退院後に車の免許を取りに行き、定時制の学校に通い、大学へ進学。そして、入院中に調べていた車いすバスケットボールを始めるのでした。
元々スポーツが生活の一部だった三元選手にとってはバスケットボールを始めるのは自然な流れだったようです。

そして、競技を続けていくと再び人生の分岐点に出会います。
海外のコーチから指導を受けることが出来る”エリートキャンプ”です。
このキャンプに参加した三元選手は、コーチングやシステムに衝撃を受けて、海外でのプレーを決意したそうです。

堀江さんにも相談をしたそうですが、かつて堀江さんが留学していたイリノイ大学ではなく、大輔選手は今まで誰も日本人が行ってない、アリゾナ大学に行くことに決めました。
その理由が

「ルーさん(堀江さん)がイリノイ大学を開拓したように、自分も新しい大学に進むことで、次の世代の選択肢が残ると思ったんです。」

私はただでさえ、異国の地で挑戦で苦労もするだろうに、次の世代の事も考えることが出来る大輔選手を年下ながら尊敬したのを覚えています。
拠点が海外なので、私が出来る事は限られていますが、大輔選手へのサポートが始まりました。
年下でも、尊敬できる人と出会えることは幸せです。

その後、大輔選手はアリゾナでもチームの主力選手として全米選手権4位を獲得。
全米選手権での活躍も評価され、テキサス大学アーリントン校に日本人初の特待生として推薦される事となります。
テキサス大学でも車いすバスケットボール全米大学選手権に日本人アスリート3人目の優勝を果たしました。
(この話はまた、別の機会に書き綴りたいと思います。)


しかし、やっぱり少し変な奴で、財布を持たずバケットハットに現金を入れ生活しているという随所に仙人感が漂う男なのでした。

つづく