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変化に強い「Bの学び」とは?

コロナ騒ぎが起こってわかったことがあります。
それは世の中に「変化に強い奴と弱い奴」の2種類がいるということ。

平和な時には見えなかった人間のタイプがコロナで見えてきました。私自身を含め、仲の良い友人には「変化に強い=変化を歓迎する」タイプが多いようです。
昔ながらの「火事と喧嘩は江戸の華」と変化に血が騒ぐタイプ。伝統や前提が崩れようとするとき、財布がカラなのも忘れて「うおう、やる気出るぜ!」と燃える人間。

ここで”現代の江戸っ子”には共通点があることを発見しました。
それは彼らが「余白」をもっていること。余白とは時間と気持ちの余裕。これと反対に常日頃から「忙しい」が口癖の、余白なし人間は変化に怯えていることが多いように見えます。

というわけで今回は、危機にひるまないための「余白」について。


急な誘いに即答できる「余白」はあるか?

昨日の夕方、iPhoneの電話が不通になりました。そんなときに限って「電話が通じない」とのクレームメール多数。ドコモショップに駆け込むと、担当の女性が慌てず騒がす、

「再起動してみましょう」
・・・・これで直りました。困ったときの再起動。慌てた自分が恥ずかしい。

で、電話を掛け直すと知人の霞ヶ関お役人から、某プロジェクトの委員就任依頼。トラブルで気が動転していたこともありますが、話を聞いて面白そうなので「受けます!」と即答しました。

これとは立場逆に、私から友人数名宛てに、「新ネタ勉強会に付き合わない?」と誘いのメールを出したところ、数分のうちに全員から「行きます!」と即答をもらいました。

誘われた時、面白そうなら「行きます!」と即答できる瞬発性をもっているかどうか。
ここで「私が参加していいんでしょうか?」などと尻込みする奴、あるいは「スケジュールを調整して」と時間に余裕のない奴、そんな人間は面倒くさいので2度と誘いません。

即座に反応できる時間的な瞬発性。これに加えて、ノリの良い仲間には「未知の学び」を楽しめる精神的な余白=新たな学びを歓迎する姿勢があります。これを共有できることが何より大切。実はこれこそが「変化に強い」源ではないかと思うのです。


Dの学びが忙しさをつくり、Bの学びが余白をつくる

ひとくちに「学び」といっても2種類あります。
ひとつが「目的のある学び」で、もうひとつが「目的のない学び」。
「目的のある学び」の根底には義務や必要性があります。典型が合格を目指す受験勉強。これを不足(Deficit) を埋める「Dモードの学び」と名付けましょう。

一方、「目的のない学び」とは「学ぶことそのもの」を楽しむこと。そこには義務や必要性といった「何かを求める」気持ちがありません。学ぶことが楽しいから学ぶ。そんなあるがまま(Being)の学びを「Bモードの学び」と名付けます。

子どもの時の受験勉強以来、私たちの心と身体には、合格やスキル獲得といった「目的のあるDの学び」が染みついています。これに対して、「目的のないBの学び」はわかりにくい。なぜなら学んでもお役立ちがまったく存在しないからです。ただ、Bの学びはあとから効いてくる。とくに今のような変化の時には、Bモードの根底に流れる「好奇心」が効果絶大なのです。

私は月に1回「孫子女子勉強会」という孫子の兵法を人生に活かすという、女性限定勉強会の講師をしています。この勉強会がまさに後者の「目的のないBの学び」勉強会。正直言って、私も最初は戸惑いました。この勉強会、「何のために」というゴールがなく、始めてみないとどこへ向かうかわからない。ただ、みんな、それぞれ自分なりに考えていて、終わると「気持ちよかった」と言うのです。彼女たちの「気持ち良さ」を理解するのに私も時間が掛かりました(笑)。

いまは私自身も講師として「答えのない学び」の楽しさを満喫させてもらっています。ちなみに参加者の岩山さんがブログで「Dの学びとBの学び」を講師・生徒の両面からまとめてくれました。これは「ビジネススクール頭」の人には参考になると思います。(もしかしたら、読んでも全く理解できないかもしれない)。
http://iwayama.hatenablog.com/entry/2021/01/11

実のところ、不安から逃げようと、義務で学ぶDの学びには終わりがありません。いつまで経っても次々と不安が出てくるから。環境が変化する時はなおさらです。Dモードの学びは結局、さらなる不安感と忙しさしか生み出さない。これに対してBモードの学びを身につけた人間はどんな環境でも「自分で考える」ことができるし、それを楽しむことができる。これではじめて「余白」がつくり出せるのです。

環境激変のときこそBモードの学びが大切だ!

世の中が安定的で変化がそれほど起こらないなら、Dの学びの方が優勢です。既存の価値観に沿った有名な学校や資格を目指すことに意味がある。

しかし、いまのように経済環境が激変する時、果たして学歴や資格に意味があるか? そんなものにもはや価値はなさそうです。名刺に書かれるキレイな肩書きより、明日の飯の種を見つけるタフさのほうが大切。そんなときには「変化を楽しめる=新たな環境に相応しい新しい考え方・行動をすぐ身につけられる」順応性が求められます。これを生み出すものこそが「余白」であると思うのです。

考えてみれば受験勉強とは、いま必要とされる能力をむしろ「損なう」面が強いように思います。学校であれ資格であれ、受験勉強は「ひとり」で行うもの。カンニングはいけません。「ひとり」で苦労の勉強して栄光を勝ち得た者は、それで上手くいかないと「また次」の資格勉強をはじめたりします。よく居るんです、会計士取ってもそのあと次々に別の資格目指す「孤独な努力を続ける人」って。

資格の勉強を趣味としてはするならいいですが、それで金が稼げると思っているなら止めたほうがいい。なぜならが受験勉強で鍛えられる「ひとり上手・がんばり上手」は、最近の仕事に全く不向きだからです。

それより「みんなで楽しく学ぶ」Bモード時間を経験しつつ、「みんなと一緒上手・助けられ上手」になったほうが仕事しやすいと思います。実際のところ、最近の仕事ってネットで調べたりみんなで知恵出し合ったり、カンニングばかりだしね。グーグルを使いこなし、仲間と共に助け合う。そんなカンニング上手、教えられ上手のほうが優位になってきました。

「火事と喧嘩は江戸の華でい!」
コロナ危機に負けない人間になるためには、余白が大切。

・時間と精神に余白を持つこと
・楽しく学ぶ心と仲間を持つこと

これが大切なのではないかと、しみじみ思います。
いつも心に花束と余白を。

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