老人ホームほすぴたるの里第四回「しづこさん」

しづこさんは歳は86歳、脳梗塞の後遺症で左麻痺がある。介護療養病床に居た。
自分でポータブルトイレに座ることが出来る。
脳血管性の認知症はなかったと思う、記憶障害はないし。
しづこさんは糖尿病を併発しており、脚が紫色になりそうになることもあった。
しかし、しづこさんは間食好きなのだ。
よって、ベッドは散らかる。おまけにベッド内には色々なものが置かれていた。

こういう人は特に病院では嫌われる。
認知症ではないから、自分の要求はきちんと言える。
故にルーティンで業務が行われる病院、ましてや、周りはほぼ寝たきりである。
しづこさんは個室で確かに多少のわがままさはあったが。
些細な要求が職員には面倒くさいのだ。

「こうじくん、今日の夜勤はだれ?」
しづこさんが私に聞いてきた。
この病床は看護師さんが1名夜勤に入っている。
「今日は田中さんだね。」
「そうか、わかった。今晩は覚悟しとかないとね。」
田中さんは決して悪い看護師さんではないが、たまに口調が荒くなることがあった。
特に忙しいときは。

利用者さんや患者さんからしてみれば、嫌でもその夜の担当者に世話してもらわなければならない。
「今日の夜勤はだれ?」
というのは結構利用者さんからされる質問である。

「田中さんのときは怖いのよ。」
違うおばあちゃんが言った。

別に虐待事例も見当たらないのだか、しづこさんの言い分はこうである。
「ポータブルで便をするでしょう。それを変えてほしいと言っても、朝、早番の人が来るまで変えてくれない。あと、なんか言うとあれこれ怒られる。」

しづこさんのポータブルトイレの隣には洗面器が置かれていた。
その洗面器の水で用を足した後、手を洗うのだ。
冬場になるとその水も冷たいので、洗面器の水を替えるときにお湯を入れてほしいとしづこさんは言う。

ある日、ベテランの70歳近くのパートのヘルパーさんが私に言った。
「こうじさんね、しづこさんの洗面器の水はお湯は入れないほうがいいよ。私もやってたのよ、だけど怒られた。なんか申し送りでお湯は入れるな、ってなったんだって。」
「えー、そうなんですか。冬はお湯じゃないと冷たいだろうに…。わかりました。適当にうまくやっときます。」

というわけでその日からこっそりお湯を入れるようにしたのだが…

ある12月の昼下がり、いつものようにこっそり浴室に行って、何食わぬ顔でお湯を汲んでくる。
あるベテラン介護さんAさんに見つかる。
「こうじさん、何やってるんですか!ダメって決められてるんじゃないですか!」
はい、私、プッチンキレた。

詰め所に行って師長さんに
「なんでお湯入れちゃダメなんですか!」
と詰め寄った。

そして、この日の勤務後、10カ月続いていた禁煙が終わった。

それから半年ほどして、病院は特養に転換され、私は同じ系列のグループホームに移動した。

人員が不足していて、半年後ぐらいにヘルプ要員に駆り出されてその特養に行ったとき、しづこさんは言った。
「こうじくん、元気だったか。私はね、こうじくんが自分の子どもよりかわいい。あんた三味線を弾くんだってね。私がしっかりしているうちにあんたの三味線が聞きたい。」
周囲の同年代の人間がボケ始めるのを見ているしづこさんはしっかりしているうちがいつまでも続かないと思っていたのだろう。

一年前ほどにクルマを走らせていたら、葬儀場にしづこさんの名前を見た。
しづこさん三味線聞かせてあげられなくてごめんなさい。

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