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日本人が知らない日本誕生の真相③ 7世紀初頭の倭国の国際情勢


倭国の政治体制

ここで厩戸皇子(聖徳太子)がいた頃の倭国が置かれた環境を眺めてみましょう。

倭国は半世紀前の「磐井の乱」の後は騒乱も少なく、倭王権の影響力は東北地方南部から九州にまで及んでいました。

当時の倭王の権力は江戸時代の幕藩体制における徳川将軍家のような立場であったと想像しています。

現在の奈良県は「やまと」という王国の中枢であった場所であり、これに京都府、大阪府を足した、いわゆる「畿内」と呼ばれる地域は、徳川時代における「関八州(関東地方)」のようなもので、倭王権に直属する部族がたくさん居住していたと思われます。

ほかの地域には小さな独立国がたくさんあり、それらの国の王(きみ)は「やまと」の王に属していました。

やまと王」は服属する諸国の連合体を代表する大王(おおきみ)として諸外国と外交していました。「諸外国」とは主に南北の中国王朝、朝鮮半島の3つの国、つまり北部の高句麗、南部の百済と新羅です。

百済・新羅・高句麗と倭王の関係

半島の覇権を争う三国はそれぞれ倭国を味方につけようと必死で、倭国も半島南部に領地みたいな場所を持っていました。

その一部を百済に譲渡したり、新羅の侵略を受けたりといったことがあって、欽明天皇の時代には半島にもっていた権益のほとんどすべてを手放してしまったようです。これがいわゆる「任那」です。

欽明天皇(厩戸皇子の祖父)は任那(半島東南部)を再興するよう遺言して亡くなったとの記録があります。

任那を奪った新羅は基本的に倭国にとって敵性国家でしたが、新羅はさまざまな外交努力で倭国との戦争を回避するよう努めていました。

百済は4世紀からすでに倭国とは友好関係にあり、かなり親密な付き合いがありました。
北方の高句麗は倭国連合と境界を接していませんが、半島南部の覇権を巡って4世紀以降、倭国と軍事衝突したことがありました。

一方、6世紀以降の倭国は半島に軍事介入する意欲を徐々に失っていったようです。
複雑な半島情勢に翻弄されて国力を疲弊するより、半島諸国とは一定の距離を置いて、列島内の開発と安定に力を注いだ方がよいという考えに変わっていったのでしょう。

隋による中華の統一

西暦589年、東アジアの情勢を一変させる事件が起きました。中国の北半分を支配していた「」という国によって、南半分を占める陳という国が滅ぼされ、隋が久しぶりに中華を統一したのです。

歴代中華王朝は統一によって余力ができると領土拡張戦争を始めます。

朝鮮半島も前漢の時代には楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡という直轄領が設置されていましたから、統一後の隋が領土奪還を名分として半島に勢力を拡大する可能性が高まります。

隋の拡大を恐れる高句麗は、背後にある百済と新羅を抑え込むために倭国と仲良くしておきたいでしょう。

百済と新羅も生き残りのために倭国を利用しようとします。倭国王家の周辺には各国のスパイが暗躍し、様々な陰謀を働かせていたはずです。

倭国政権の内部では、親百済派、親新羅派、親中国派、中立派などが入り混じって複雑な権力抗争が展開されていたと想像します。
これが厩戸皇子が二十歳になった頃の国際情勢でした。

倭国独自の政治体制を隋に認めてほしい

高句麗が隋に滅ぼされたら、その次は百済と新羅が併合され、その次は倭国連合が危ない。

倭王が隋に恭順したら、倭王は倭国連合の盟主としての地位を維持できるだろうか。

これが倭王にとって最大の外交課題でした。この課題に取り組むにあたって最初にやるべきこと。それは隋政権の実態をよく知ることです。

だから、隋に使者を派遣して外交関係を持とうとします。そして、倭国連合体制をそのまま認めてもらえるかどうかを探ることになります。

倭王としては、隋の覇権に挑戦も邪魔だてもする意思がないことを隋の皇帝に信じてほしいのです。

その代わりに、この東方の島国の政治体制現状維持で皇帝に認めてほしい。

隋の皇帝がそれを認め、倭国王の地位を保証してくれるかどうかはわかりません。

もし仮に「保証する」という言質を取ったとしても、あとで手のひらをかえされる可能性はあります。
隋が高句麗を滅ぼそうとするのなら、倭国を滅ぼそうとする可能性も否定できません。

中華王朝に服従したら倭国連合の未来はどうなるのか。滅ぼされて直轄支配を受けるのか、多少の自治は認められても収奪を受けるのか、形式的に服従さえすれば実質の現状維持を認めてくれるのか。

これががわからないということが倭王権にとっての悩みですから、できることなら中華と深く関わらないで、孤立主義を選びたくなります。

日本はまだ存在していない

隋と倭国では国力だけでなく文明のレベルが違いすぎます。

圧倒的な軍事力で半島が中国化されたら、「やまと」に属する小国家群は中国になびき、「やまと」は畿内地方の小国の地位に転落するかもしれませんし、悪くすると滅ぼされます。

当時の日本列島にはいろいろな言語を話す種族が雑居していて、まだ「日本人」が成立していません。

倭人は半島各地にも散在しているし、百済政府には倭系官僚とでも言えそうな集団がいたようですし、中国人、百済人、新羅人なども列島内に散在していたでしょう。

この時代は現代人がイメージするような国家的領域は定まっていないのです。倭王の覇権が半島に及ぶことも、逆に九州から撤退することも、当時の人たちの意識ではありえたと思います。

そういう感覚で地図を眺めないと、この時代の真相に迫れなくなってしまうでしょう。

隋軍の列島侵攻の可能性

この時代のほんの百年前には倭王自身が中華皇帝から将軍の称号などをもらって喜んでいました。

そうすることで倭国内での権力を安定化する効果が見込まれたのでしょうが、それほどの権威が中華王朝にはあったし、一方で倭王権の地位はそれほど不安定でもあったのです。

隋軍が列島に侵攻するなどということはありえない。

と倭王は考えていたでしょうか。

当時の人々は正確な地図を持たないし、中華王朝の実力も自国の国力も数値的な把握はできません。

しかし、遣隋使からの報告で中華文明とのレベルの違いも、人口や軍事技術もお話にならない格差であることも想像できていたはずです。

少なくとも、かつて倭軍は対馬海峡を越えて半島に数万の軍勢を派遣した実績があります。倭軍にできたことが隋軍にできないとは言えないでしょう。

つまり、半島を制圧した隋軍が九州へ、そして畿内に侵攻する可能性は、当時の倭王にとって現実的な脅威であったと思うのです。

やまとが生き残るには

隋が倭国に進攻しようとしたとき、倭国連合の分裂を阻止するにはどうすべきか。

隋の属国となるのでなければ、隋に対抗できる強力な国家を作って軍事的に防衛するしかないでしょう。

それは、倭国連合の結束をより強固にすることであり、最終的には権力を倭王(やまと王)に集中させることです。

ならば、どうやって地方の小国や特権勢力を倭王の直接管理下に置くか。

これは明治維新における廃藩置県と同じで、特権を廃止し、軍事統率権や税の徴収権を地方政権から奪おうという企みですから、当然反発が予想されるし、失敗すると自滅の恐れがあります。

倭王権はこの課題をどのように乗り越えようとしたのでしょう。


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