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ちいさな紙

雑節|七夕
令和6年7月7日

 ちいさな紙にせっせと向き合っているひとが好きだ。というより、なぜだかそうした姿を目で追ってしまう。手元の紙に何かを書き込む手つきは、スマホを操作することに比べると、他人にひらかれているけれど、それでも開けっぴろげにはできないいじらしさもある。たとえば、毎朝の通勤電車。日吉から乗り込んでくる短歌のひと。中目黒までの20分をかけて、一句か二句、小ぶりな手帳に書き込む。息が詰まるほどの車内は、ATフィールドが脆くも破られパーソナルスペースなぞないに等しいのだけれど、真っ白な紙面に頼りない線が引かれる間だけは、その周りにエアクッションがぼむっと開かれているような気がする。きれいに切り揃えられたその人の襟足を横目に、まったくの他人と隣り合うことの奇妙さと面白みに、頬をゆるめたりもする。

 だから、老若男女がこぞって願いを書きつけるこの時期は、なんとなく浮き足立つ。もはや織姫と彦星に心を砕いて晴天を祈るほど無垢ではないが、乾いた匂いのする笹の葉に、色とりどりの紙が揺れているさまは、見ているだけで気持ちがよい。先日、同僚Aの壮行会で訪れたイタリアンレストランの裏口にやけに大きな笹が立てかけてあって、そういや七夕か、短冊なんて久しく書いてないな、Aさん願い事ないの? と、大凡そうした会話で時間を埋めながら、めいめい短冊から微妙な距離を保っていた。しばらく黙ってサングリアを飲んでいたAだったが、テーブルに2枚の短冊をサッと並べると、筆箱からフェルトペンを取り出し、黄色の短冊に取り組み始めた。キュッキュッキュッと運ばれるAのペンをチロチロ盗み見ては、けっきょく最後の日まで確信的なことは何も聞けなかった彼女が、どんなことばを書きつけるのかばかりに気をとられていた。

 当のわたしはさっぱり願いを書けずにいた。それもなんだか味気ないのかしらとこのエッセイを書きながら思っていたが、普段からちいさな紙に向き合う人を凝視しているのだから、自分が書く分にはもう食傷ぎみなのかもしれない。それに、短冊から離れてどうしても想起するのは選挙用紙である。今年の七夕は、おりしも東京都知事選とフランス下院議会選挙の投票日。わたしはどちらにも投票権はないため部外者といえばそれまでなのだが、それでも投票所で背中を丸める人たちの姿を思い起こすと、やはりとくべつな魅力が立ち上がる。わたしとあなたは全く反対の立場かもしれないけれど、すくなくともお互いにちいさな紙を通じて何かをあらわそうとしている。それは民意という漠然とした集合体として吸い上げるには勿体なく、短歌ノートに書きこむ一句や、短冊に書きつけた四字熟語が、公と私の境を行き来しながら思いがけず他者の目に触れて、当人の預かり知らないところでさざなみを起こしていく日常の肌理と、おなじ地平で見ることもできるだろう。

-S.T.

七夕

タナバタ
雑節

七夕とは一切関係ありませんが、この時期はそうめんを食べたくなります。先日は島原のそうめんを知人宅でいただきました。こんど会う友人とも、そうめんの約束をしています。そうめんは、食べるひとによって薬味や付け合わせ、タレを変えられるので、夏の万能エンターテインメントですね。

参考文献

なし

カバー写真:
2024年7月6日 昼過ぎ突然の雷雨。神保町の古本屋の軒先を渡り歩いて悪あがき。

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ちいさな紙
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