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祈り、光。生きるということ(続きを少しだけ)

 岡崎京子展から受けた情報があまりにも膨大で処理しきれないまま過ごしていましたが、その一週間後にいつか本物を拝見したいと思っていた志村ふくみ先生の着物展示・販売会「しむらのいろ ~山川色衣 草木色衣~」(「さんせんしきえ そうもくしきえ」と読むそうです)があるということで、なかなかない機会なので動かない身体にむち打って銀座まで行ってみました。

『志村のきものは、動物、植物、鉱物の命をいただいてできたものです。いただいた命に感謝し、祈りを捧げる思いで、作品を制作しました。』
http://shimuranoiro.com/topics/787/

 ここに書かれている言葉に嘘偽りはなくて、それは展示されている着物からというより、その場にいらした志村ふくみ先生や展示・販売会のお手伝いをしているお弟子さんたちが着て動いている姿からより伝わってきて、基本的に飾られるためのものではなく生活に根ざして使われてこそ活きるものなんだなという印象を受けました。ふくみ先生には恐れ多くて話しかけることができなかったのですが、お弟子さんに話を伺ったところ、お弟子さんたちが着ているお品はそれぞれご自身で織り上げたものなのだそうで、動くことによる光の当たり方や空気の含み方、形自体の変化などで輝き方も変わってくるのだそうです。草木染めなので手入れは大変かなと思ってその辺りも質問してみたら、やはり少々色あせたりはしますけども、今先生がお召しになっている着物は30年ものなんですよ、とのことで、先生の着物を改めて見るために探したら、その時ちょっとむずかり始めたちびっ子がいて、その子を見つけた先生が相手をしているうちに一緒に笑顔を交わすようになった一連のシーケンスを目の当たりにしまして、その有りように何より感動しました。色あせてるんだか時を経て輝きを増しているのかよくわからなくなっていました。

 先生の着物は先生そのもので、先生はなんだか自発的意志で「生きている」というより人間のようなちっぽけな生き物にはコントロールできない何らかの大きな意志により「生かされている」人だと思ったんです。命をいただいて、祈りを捧げていることが生き様に自然に根付いている方だと感じられたんです。

 そして、今の岡崎京子さんもきっと志村ふくみ先生のような「生かされている」人になっていると思ったんです。ふくみ先生と同じように、「生きていること」と「祈り感謝していること」が同義である日々を送っているのだろうなと思ったんです。

 その場でお弟子さんに「私はいつか先生の着物にふさわしい人間になって、お金をためて先生の着物を買うことが夢なんです」と何となく伝えたら、思いのほか喜んで下さって、記念に売り物のショールを羽織らせてもらったんですが、それが柔らかいけど芯はしっかりとしているのが伝わってくる、祈りや感謝がしっかり衣服や肌の下まで伝わってくる優しくて温かいものだったんです。これもやはりただ飾られているだけなのと身にまとうのでは全然違った印象を与えるものでして、着物はともかく(そもそも展示されてる着物には「無粋だから」という配慮なのか値段が書かれてない)、ショールはものっすごく頑張れば買えない値段でもなかったのですが、そういう買い方をするお品ではないような気がして、いつかこれにふさわしい人間になったら自然に手に入るもののような気もしたので、お弟子さんにお礼を伝えてそっとその場を去りました。

 私もいつか、少女時代の私を支えてくれた岡崎京子さんの作品や、少女の面影がどこかに残っていて最早それが自然の一部に溶け込んでいるように感じられた90歳の志村ふくみ先生ご自身やその作品のように、祈りを捧げて織り込んだ文章でそれを必要とする誰かを包み込むことができたらいいなと思います。

 この気持ちを忘れず、また、生かされていることに感謝を忘れない人間でありたいです。まずはそうあろうと努力して、いつかそれが努力にもならず自然に行える境地まで辿り着きたいです。それができたらきっとふくみ先生の作品が似合う人間になれると思います。

 #岡崎京子展 #岡崎京子 #志村ふくみ #しむらのいろ #少女

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