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はきだめのチェリー 19

【19】

 自分勝手な鉛玉をぶっ放すことで、血溜まりで怯える少女アイリスを救った気になったトラヴィス。その魂は、ニューヨークの街を永遠に彷徨い続けてる。

 でも私は違う。

 田中は私が止める、ユメキも止める。大丈夫、きっと出来る。

 何とかなる、大丈夫、大丈夫だ。

 咀嚼できない感情の固まりを強引に飲み込み、意を決して公衆トイレから出た。

 歩道を越えると、ユメキが必死の形相で走り寄ってきた。

 息を整える間もなく真剣な面持ちで告げる。

「ちえり! 今さっき、田中さんがヤバそうな人に捕まっちゃったんだよ! どうしよう……私、何も出来なかった……」

 唇を小刻みに震わせるユメキの肩に、私はそっと触れた。

「わかった、行こう!」

 私はユメキの手を強く掴んだ。まるでヒロインの手を取り、ここではない何処かに連れていくヒーローのように。恥ずかし気もなく言い放つ自分に、少し戸惑う。でも、私が彼女にしてあげたいことは、きっとこういう事なんだ。

 広場の喧騒を遠目に見ながら、田中が連れ去られた場所を目指す。街宣車の上で、市長の山中が弁舌を振るっている。彼を仰ぎ見る市民も、要所に歓声を挙げながら演説に聴き入っていた。私たちは、群れから取り残された草食動物のように、息を潜めて田中の元に向かった。

「ここだよ、ちえり」 

 山中の選挙事務所が並ぶプレハブに着いた。

 演説を直前にして、周囲に人影は見えない。辺りを見渡すと端にあるプレハブから聞いたような声の怒号が聞こえる。

「ちえり、あっちだよ」

 ユメキが小声で指を指す。

 形になってない忍び足で近付くと、ドアを開け放ってこちらを見やる屈強な男性が現れた。

 屈強と言っても、スーツに七三分けのインテリ風な見た目。筋肉隆々ではあるが、特段ヤバそうな人とは言えなかった。

「何か?」

 鋭く見下ろす視線と低くこもったバリトンボイス。思った以上の圧力を感じる。自然と怖気づく自分が居た。

 後ろずざりしながらプレハブの奥に眼を向けると、壁にもたれて血と涎にまみれた田中の姿が見えた。傍らの長テーブルには、包丁と拳銃が乱雑に置かれていた。

「あの、実は彼、知り合いで……」

「あぁ、山中先生の支持者の方ですか。少し散らかっているので、片付いたらお呼びします。向かい側の控え室でお待ちいただけますか?」

 支持者とは一言も告げていないのに、控え室に無理やり誘導される。

「ご案内します」

 丁寧に指示をしてくるが、田中には一瞥もくれずに入口の戸を無慈悲に閉めた。

 私の肩に触れながら誘導する。その手から体温は感じられなかった。ユメキも彼に萎縮して、流されるままに別のプレハブへ吸い込まれていった。

 長テーブルとパイプ椅子が無機質に並べられていた。

 ここに案内されても仕方ないだろう。とても座る気にはならなかった。男は短く会釈すると踵を返して出ていった。

 ユメキが不安な横顔で呟く。

「どうしよう、かなりボコられてたけど……、ヘタしたら殺されちゃうよ」

「そうだけど、そば包丁と拳銃なんて隠し持ってたら怪しまれるのは当然だよ。私の見立てだと田中さんからあの男性に絡んでいって、そんで返り討ちにあって捕まって連れて行かれた。その線もあると思う」

 どうせ田中のことだ。おおよそ、そんなところだろうと予想する。

「だからって一方的に殴られてたら田中さんヤバいよ。ねぇ、助けなきゃ!」

 すがるような視線に首を絞められるみたいに苦しくなる。とは言っても、状況はかなり最悪だ。

「あの人の目を盗むのは不可能だろうから、何とか交渉するしかないよ」

「どうやって?」

 私は無い知恵を巡らす。

 あの男性の風体、態度。考えると何かおかしかった。

「あの人、警察に通報する訳でもなく一人で田中さんをボコってたよね。それって、いくらなんでもヤバくない? あれじゃリンチだよ」

「そこを突いて、あのヤバい人から田中さん救い出せるかもしれない……ってこと?」

 あの男が田中の凶器を引き合いに正当防衛と称してボコボコにしてる可能性もあったが、考えてる暇は無かった。

「自信ないけど、何とかやってみるしかない。私を信じてユメキ」

 とびきりクサい台詞だった。止めどなく流れる汗を手で払い、ユメキの手を取りその場を出る。

 

 プレハブに近付き、中の様子を探る。

 うっすらと田中の声は聞こえるが威勢は無い。ユメキを後方に誘導し、戸をゆっくりと開ける。

 田中に拳を振り上げてる瞬間に男がこちらを振り向いた。

「まだ、何か用ですか? 先生のスピーチは、とっくに始まってますよ」

 男は威圧的な巨体を向けながら、私たちを見下ろすように言い放つ。私は懇願するように男に告げた。

「あの、それ以上やったら、死んじゃいますよ。お願いだから止めてあげてください!」

「私は山中先生に害を為す人間を見過ごすことが出来ません。この不審者は、大事な選挙活動の最中に凶器を持って私の面前に現れた。看過できる訳がありません。それに、この方は私に勝手に向かってきてるだけです。そもそも、正当防衛です」

 話が通じるようで全く通じてない。

 この男と田中の言動、どっちがヤバいか天秤にかけた。間違いない、コイツのほうだ。

「でも……警察でもない貴方が、私的に暴力を振るって良い理由にはならないでしょ!」

 怯えと怒りの入り混じるユメキの声。彼女の不安が肌を通じてこちらにまで伝播する。私も恐い……。

「だから何です? 警察に引き渡してもこういう愚か者は何度でも危険な行動を取ります。身体で分からせなければ意味が無いんですよ。理解いただけましたか?」

 そう言い終えると、身体を引きずりながら膝にしがみ付いてくる田中の脇腹を無慈悲に蹴り飛ばす。

「ぐほっ……」

 田中は激しく咳き込み、黒い血ヘドを吐いている。既に内臓がズタズタになってしまってる。かなり危険な状態なのは火を見るより明らかだった。

 男の完全にぶっ飛んだ思考に私は激しく震えた。ネットで暴言を吐くだけの層とは一線を画す、実行力と暴力性。どんなフィクションでも見たことのない厄介な奴だった。

「やめて!」

 ユメキがたまらず走り出していた。義手で手を伸ばしたが、身体にかするだけ。届いたところで何も出来なかった。

 田中と同様に男にしがみつき激しく抵抗しているユメキ。

 彼は微動だにせず、ユメキをゴミのように見下ろしている。眼が獲物をロックオンした猛禽類のように強張っている。

 背筋に悪寒が一気に押し寄せる。

「止め――」

 骨が砕ける不快な音が鼓膜に刺さる。凶悪な一閃がユメキを襲っていた。

 食肉加工所で運ばれる枝肉のように彼女の身体が無惨に床を転がっていった。

「ユメキっ!」

 身体を圧し折られて叫び声も挙げられずにうずくまる。恐怖と焦燥に駆られて冷たい汗が身体中をつたう。

「これ以上、加害者を出したくないので貴方は早々にお引取りください。この二人は演説が終わるまで拘束します」

「……加害者? 誰が加害者だって? ふざけたこと言ってんなよ!」

 男のメチャクチャな理屈に自然と怒りが爆発していた。

 しかし、勇ましいことを言いながらも、足腰は崩落寸前まで震えていた。

「貴方と口論している余裕はない。暫くしたら、山中先生をお迎えに行かないとならないので。今すぐお帰りください」

 この事務的な態度は何なんだ?

 仕事として完全に割り切って人間を破壊してる。公権力にこんなヤバい奴が居るなんて、どんな反社会的勢力よりも、たちが悪い。

 誰もが自分の人生に思い悩んでるんだと分かった気でいたが、本当にイかれてる奴も一方で実在する。ここにきて、培ってきた価値観が再び瓦解しそうになる。

 それでも、引けなかった。ユメキを守りたい、田中も救いたい。

「二人を返してくれるまでは、絶対に引かない。絶対に!」

 人生を賭けた発破。

 もう迷わないんだろ! やるんだ、私!

 テーブル上に置かれた拳銃に向かって一目散に走る。全力を振り絞り身体を前へと進める。男の方も、屈強な体躯を駆使して拳銃に手を伸ばす。

 間一髪、なんとか男より先に拳銃を拾った。

 だが、勢い余ってパイプ椅子に突っ込む。後頭部に衝撃が走るが、そんなのお構いなしに銃口を男へと向ける。

「いい加減にしてください。どうせ撃てませんよ。もう、私の仕事の足を引っ張るのは止めてほしい」

 そんなの、もう知らないし、耳にも入らない。

 拳銃なんて始めて持ったし、思ってたより重くてビビる。映画で観たように撃鉄を親指で引こうとするが、固くて上手く動かない。

 右手の義手の先端を使って必死に撃鉄を起こす。

 だが、その間に、殺気を帯びた人影は目前まで迫っていた。三メートル、ニメートル、もう手が届く距離。

 恐い、こわい、全身がガタガタ震える。歯もカタカタと音を立ててる。

 目を瞑った刹那、空気を切り裂く破裂音が耳を襲った――。

 火薬の硝煙に咳き込みながら目を開けると、男が低い声で呻いていた。

 気付く間もなく引き金を引いていたようだ。男の身体のどこかに当たったらしい。だが殺してはいない、はずだ。

 殺したい訳なんてないから、そうあって欲しいけど、絶対に引き返せない状況になったことに頭が朦朧とする。

「ちえり……やったじゃん。へへ︙」

 瀕死の田中が血ヘドを吐きながら立ち上がる。

 血まみれになった右手で獲物のそば包丁を掴み、男の方に近付いていく。

「じっとしててよ!」

 腰が砕けて床にへたり込みながらも、田中に向かって叫び散らす。

「お前はユメキを見てくれ。コイツは俺がやるんだよ……」

「ダメだよ、もう止めてよ、田中さん……」

 もう頭が回らない。

 人を撃ったという事実もまだ飲み込めてない。ユメキも起き上がれないで倒れたままだ。

 銃声を聞いて人が押し寄せるのも時間の問題だ。なのにコイツは……まだそんなことに拘ってるのか。

「だからさァ、お前も感じただろ? コイツのヤバさ。俺をこんな姿にしやがったから殺すんじゃねえ、殺さなきゃ殺されるから殺すんだよォ」

 血と涎が混じった液体を口から垂れ流しながら田中が吐き捨てる。

 もう思考もままならない。田中も、私も。

「まだ間に合うよ、帰ろうよ、三人で。じゃないと、アンタをどうするか分からないよ……私」

 そう言いながら田中の前に立ちはだかる、そして、銃口を田中の額に向けた。

 もう震えは無かった、だが自分の体温を全く感じない。生きてる実感が無かった。

 まどろんだ表情で、私を睨む田中。

 ――撃ってみろよ。

 ――ふざけんなよ。

 引き金にかかった指に力が込もる。

 ギリギリまで耐えるが、田中は省みない。

 ホンっとムカつく。

 撃ちたい、でもそれは駄目だ。

 じゃあどうすんだよ!

 永遠のように繰り返される煩悶。

 その一瞬、田中が拳銃のシリンダーを掴んでくる。思わず引き金を弾いたが、弾丸は射出されなかった。

「お前さ、さんざん映画を観てきてこんな初歩的なことも知らなかったの? リボルバーはシリンダーを掴めば撃てねえんだよ。とか言う俺も、初めてやったけどよ」

 呆気に取られてると、脇腹に前蹴りを食らって膝から崩れ落ちる。床を転がる拳銃を得意気に掴む田中。

 即座にうしろに振り返り、銃口を男に向ける。

 だか既に、男は起き上がっていた。撃たれた傷に怯むことなく、田中に向かって必死の形相で突っ込んでくる。手負いとは思えないスピードで田中のどてっ腹に肩からタックルを極めた。

 全員が死に物狂いだった。もう人死には避けられないかもしれない。

 腹に抱きつかれた田中は男の傷口に指を突っ込んだ。男は苦悶の顔を向けながら殴り返す。その勢いで拳銃は反対側の壁に転がっていく。

 倒れ込んだ田中はテーブルの上のそば包丁を拾い上げ、男の足元に振り下ろした。刃は半円状の軌道を描き、男の革靴の先端を切断した。

 悲鳴を押し殺せないまま、苦痛に身をよじらせる男。

「ハァハァ、いい加減くたばれや、クソが」

 包丁を持つ手で、トドメとばかりに男の顔面をぶん殴る。完全に力が抜けていたが、柄の部分がダメージを深く刻む。

 倒れていたユメキが壁にもたれながら立ち上がり、身体を押さえながらこちらを見やる。

「田中さん、もう充分だよ! ユメキもなんとか無事みたいだから、早く逃げよう!」

「ユメキ! 大丈夫か?」

「うん……死ぬほど痛いけど、もうこれだけやったら充分だよ。諦めよう田中さん」

「お前もそう言うのかよ。だってさ、俺こんなにボロクソにぶん殴られてるし、死ぬほどしんどいしよ、お前だってボコボコにされてる。いや、そうじゃねえ。俺はユメキの役に立ちたいんだよ……。出会った時から、お前の中に俺の一片を感じてた。ちえりにもな。……もう、どうすれば良いんだよ、俺は?」

 黒い血ヘドを吐きながら、腹の底からの感情を吐露する田中。その無様で切実な語り。私の眼には自然と涙が浮かんできた。

「ありがとう。嬉しい、ホントに。でも今は、田中さんのありのままを見ていたい。血塗れで包丁持ってる貴方じゃなくて」

「ユメキ……そっか、そうだな」 

 ユメキと田中、二人だけにしか分からない言葉と想い。

 ただ黙って聞いてるしかなかった。田中もユメキも、もう大丈夫だと思う。あとは、この地獄を乗り切るしかない。

 だが再び、空気を切り裂く破裂音が耳を襲った。

 眼の前の二人が虚しく崩れ落ちる。

 音の方を即座に振り向く。硝煙のむこうには、拳銃を構えたあの野郎が居た。

 さっきまでの能面顔は、般若のように豹変していた。そりゃそうか、アンタも人間だよな。

 何て言ってるヒマもなかった。

 漆黒に染まった銃口が、今度はコッチを見てる。

 脊髄が指示する。動け……動け……動け!

 三度目の銃声。銃弾は私の右肩を直撃した。上半身のバランスを崩して倒れ込みそうになる。

 だが、お構いなしに走った。足がもつれそうになるが、構わずに疾走した。

 男は拳銃の引き金を引いた。それだけではない、拳を握って防御の態勢を取っている。私の一撃を防いだ後、拳銃で頭を撃ち抜く算段なんだろう。返り打ちにされるだろうな、きっと。でも、死なばもろともだ。

 両腕を左右に振り上げ疾走する、次の一手も考えていられない、どうする? もう飛ぶしかない。左脚に全身全霊を込めて飛翔――。数秒の浮遊、そして、私の肩口が男の顔面に見事にヒットした。

 男は拳銃を取りこぼした。私はすぐさまポケットからボールペンを瞬時に取り出した。顔を手で覆う男の耳に向かって、思い切りボールペンをぶっ刺した。

 柔らかい感触が手元に伝わる。ペン先が肉に食い込んでいく。

 ポタポタと垂れ出る鮮血。目ん玉を丸く開けて、呆気に取られてる男。

 視線は定まってなかった。

 終わった……。

 身体から力が抜けた次の瞬間、みぞおちに強烈な直突きを食らった。

「ゴホッ……? いや、マジかよ」

 テーブルを薙ぎ払いながら身体が一回転する。まだ動けんのかよ、あの男?

「この死に損ないどもが……」

 男の耳からは大量の血が流れ落ちている。額には青筋が無数に立っている、口からは白い生唾が漏れていた。もはや般若を通り越して、修羅と呼べるほどの有り様だった。

「へへ、ようやく口汚くなったな、あんたも」

 いよいよ、物語もクライマックスだな。

 でもマジでヤバい。吐き気が止めどなく押し寄せる、内臓に穴を開けられたみたいに激痛が身体中を駆け巡る。

 これ、死ぬな……私。瞳を閉じて死を覚悟する。

 諦めた私の頭に、疾駆する足音が聞こえてきた。

「うわぁああっ!」

 腹の底から吐き出された咆哮。鎖から開放された動物のような激しい叫び声。眼を開けると、そこには男の喉元に包丁を深々と突き立てる、ユメキの姿があった。

「ぐふッ……!」

 声にならない断末魔の叫び。男は口から鮮血を吐いた。

 ユメキは柄の部分を思い切り踏み付ける。何度も、何度も。

 返り血を浴びた横顔。その覚悟を、その悔恨を、心に深く刻み込む。

「ユメキ……」

「……うん。終わったよ、ちえり」

 彼女の身体にそっと触れて優しく抱きしめる。ボロボロになりながら、天を仰ぐ。

 ――ようやく終わったんだ。

「田中さん、帰ろう……」

 大の字で天井を仰ぎ見る田中に告げる。

 だが、彼が返してくれるのは、凪のような穏やかな静寂だけだった。



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