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これからリスクコミュニケーションを始めようと思っている科学コミュニケーターの皆さんへ(佐野和美・帝京大学)

佐野和美さんは帝京大学理工学部で科学コミュニケーションとリスクコミュニケーションについて研究されています。その佐野さんからみて、科学コミュニケーションとリスクコミュニケーションは似ているようで、異なる点が多いと指摘されます。新型コロナウイルスが蔓延する中で、科学コミュニケーターがリスクコミュニケーションに携わることが出てくるでしょう。その時どのような点に注意すれば良いのか、佐野和美さんにまとめていただきました。

はじめに

新型コロナウイルスの感染が、世界中で広がっています。日本でも、連日連夜のニュースで報道され、「コロナ鬱」や「コロナ疲れ」というワードが各所から聞かれる毎日です。
普段から科学の啓蒙や市民の皆さんとのコミュニケーションに努めている皆さんの中には、ご自身やご家族の感染の不安を抱えながらも、「科学を伝える者として今こそ何かしなければ」と、使命感を感じて行動に移したいと思っている人もいらっしゃるでしょう。
テレビやインターネット等で流れる情報の中には、間違った情報も数多くあります。誤情報は、市民の不安を増幅し、時には命に関わることもあります。
科学を伝える術を持っている皆さんが、痛みを伴うコミュニケーションに参画し、正しい情報の啓蒙と、科学的に間違った情報の訂正のために活動してくれることは、大変心強く思います。
その上で、リスクを伴う情報を伝達する時に行われるリスクコミュニケーションには、普段、皆さんが取り組んでおられる楽しい科学の伝達や、科学の面白さを伝える実践活動とは少し違った特徴があることを知っていただきたいと思い、いくつかのポイントをまとめてみました。

リスクを完全に回避することはできない

リスクコミュニケーションは、相手を説得することが目的のコミュニケーションではありません。リスクやその対処法を知り、リスクがある状態でリスクと上手に付き合っていく方法を選択していくのは、市民自身です。リスクコミュニケーションの役割は、その選択を助ける情報を提供することです。
何よりも最初に知っておいていただきたいのは、「リスクはゼロにはできない」ということです。この世界にはさまざまなリスクがあり、それらすべてを回避することはできません。あるリスクを避けるために取った行動が、別のリスクを生むこともあります。
リスクがたくさんある中で、許容できる種類と範囲のリスクはどこまでかを見極め、それを受け入れ、傷を最小限にしながら生きていくしかありません。リスクを避けることで生まれる別のリスクを受け入れること。この、許容できる種類と範囲のリスクを決めるのが、「リスクのトレードオフ」です。

リスクのトレードオフを支援するための情報発信

「リスクのトレードオフ」は、一人ひとりがやっていかなければいけません。許容できるリスクの種類や大きさは、人によって違っているからです。
例えば、胃の粘膜を荒らす副作用がある頭痛薬を、ひどい頭痛を避けるために飲む人もいれば、胃が荒れることを避けるために飲まない人もいるでしょう。これも、トレードオフです。
こんな事例もあります。
2011年に福島第一原子力発電所の事故で放射性物質による汚染が広がった時、福島県にお住いのある方がこんなことをおっしゃいました。
「うちは農家で、祖父母がほうれん草を作っていて、農協に出荷しています。スーパーに売っている福島県産の野菜は、なんとなく怖くて買えません。でも、祖父母が作ってくれているほうれん草は、毎日気にせず食べています」
矛盾していると感じますよね? 
ですが、これは、その方が自らの心の中に決めたルールのひとつであり、トレードオフです。この決定をしたことで、この方は、不安が解消し、福島県にとどまり続けることができました。
大切なのは、リスクのトレードオフを行い、個人個人が納得して、不安を解消し、リスクのある中でも安心して生活できるようにしていくことです。リスクコミュニケーターは、その決断を下から支える役目を担っているのだと思います。
現在の新型コロナウイルスの騒動でも、個人個人にトレードオフが求められています。
しかもそれは、経済活動とのトレードオフの場合が多く、決断がとても難しいものです。
外出自粛を守りたいのだけど、仕事に行かなければ生活ができません。仕事をテレワークに変えてもらえる人、出勤しなくても給与支払いが保証されている人は多くはないでしょう。「家族のために外出を控えて」というメッセージも、一人暮らしの人や身近に身内がいない人には響かないでしょう。
それではどうしたらいいのか?

相手との信頼関係が不可欠

リスクコミュニケーションは、不安に陥って混乱している人に、正しい科学的な知見を提供し、その不安を解消していく手がかりを与える役目を担います。その後の行動を変えていくのは、不安を解消した市民自身です。強い言葉で行動を変えるように促すのであれば、その理由を明確に示す必要があります。さらには、市民からの素朴な質問に丁寧に答えていくことも求められます。市民一人ひとりの不安を解消していくのは、簡単ではありません。
現在、たくさんの情報が、メディア等を通じて市民に提供されています。その中には、まったく正反対のことを言っているものもあり、市民は大きく混乱しています。間違った情報を信じて過度に不安を感じた人は、さらに間違った情報を集めてしまい、ますます不安になっていきます。
リスクコミュニケーションで一番大事なことは、受け手側に信頼してもらうことです。
「この人達の言っていることは正しい」「この人達の言葉なら信頼できる」と思ってもらえなければ、市民の不安を解消できませんし、行動変容につなぐことができません。
その上で、一人一人が「社会」の一員であると感じてもらい、自分の属している「社会」を守るために、責任ある行動を取ってもらうように促す必要があります。

リスクコミュニケーションで気をつけたいポイント5か条

これからリスクコミュニケーションを始める人には、この点を考慮し、以下のようなポイントに気をつけていただければと思います。

1. 相手が知りたいと思っている情報は何かを知ること。(伝える相手によって、伝えるべき内容やレベルは違っている)
2. 正しい情報を発信する。信頼できるソースをもとに発信する。
3. 善意から発信したい内容があったとしても、不得意な分野には手をつけない。
4. 発信した情報が間違っていたことがわかった場合(新しい知見で過去の情報が更新された場合も含む)、過去の情報のどこがどのように間違っていたのかを含めて、速やかに訂正する。
5. 不安を煽るだけではなく、市民自身ができる具体的な対策を伝える。

今の自分の行動が、自分の属する社会の未来を決めることを伝えるのは先が見通せない現状ではとても難しいことです。それでも、相手の行動を、相手の望まない方向に強引に誘導することは控えなければいけません。リスクの怖さの感じ方は人それぞれ異なっているので、その点にも配慮しなければいけません。

共に戦う仲間として

とはいえ。これまで科学コミュニケーションに携わってきた皆さんには、相手に合わせて専門用語の翻訳の仕方を変えるという技術や、わかりやすく伝える技法は十分にお持ちだと思います。
ぜひ、混乱している市民に手を差し伸べ、どのような情報が必要なのかを尋ねてください。
そして、その情報がどこにあるのかを伝えること、時には、わかりやすく翻訳したものを提示するというのは積極的にやっていって欲しいところです。
「わかりやすく翻訳する」部分で、自己判断で間違って翻訳する危険性があることは、科学コミュニケーションと同じです。
この伝え方はどうでしょうか? どのように噛み砕いたらわかりやすいでしょうか? などの議論を、科学コミュニケーターの皆さんで行いながら、できる範囲で、無理のないように行っていきましょう。
また、市民の素朴な疑問に一つ一つ答えていく、丁寧な双方向のやり取りも必要です。自分自身の知識と有限な時間の間で葛藤されることも予想されます。個人で取り組むには荷が重いことも多くあります。できる範囲でやりましょう。

最後に

リスクコミュニケーションは、簡単なように見えてとても難しいことを忘れないでください。技術的な面で、というより、心理的な面での負担がとても大きいものです。
正しいことを伝えても、逆サイドの人から、激しい突き上げを受けることもあります。
また、リスク情報を分析し続けている間に、自分自身が飲み込まれて心を病む恐れもあります。くれぐれも無理はしないことです。
何度も言いますが、皆さん、できることをできる範囲でやっていってください。

■メンバーの 田中さんのツイートから関連書を紹介

定番教科書
Risk Communication: A Handbook for Communicating Environmental, Safety, and Health Risks

上記の本に追加でご参考に
The SAGE Handbook of Risk Communication

もう少し実務よりの軽めのものは以下
Effective Risk Communication: A Message-Centered Approach (Food Microbiology and Food Safety)


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