『海と追憶』 全文

第一章『睡魔と逃亡』

目が覚めても、身体は動かない。何もかもが億劫だ。
薄汚れた天井を眺めながら思う。
今日は何月何日だっけ? ……わからない。
お腹が空いたような気がする。最後にご飯を口にしたのはいつだっけ? ……わからない。
何かやらなくちゃいけないことはあったっけ?
何かやりたいことはあったっけ? ……わからない。
今日はこれから何をしよう。何をしたらいいんだろう。 ……わからない。
ただ、なんとなくここにいたくないような気はする。ここにいてはいけない気がする。
どこかに行こう。どこへ行こう。 ……わからない。
まぁ、いいか。どうせ、自分には何もない。何もかもがどうでもいい。
鉛より重たい身体を起こして。身支度もしないで。ボロボロのスニーカーを履いて。
何かから目を背けるように、何かから逃げるように外に出た。
ほんのりと暖かい春の風が、頬を撫でた。



第二章『車窓と回顧』

なけなしの小銭をかき集めて、終点までの切符を買った。
流れる景色をただ見ていた。
意識が少しずつ覚醒していくとともに、より強く思う。
とにかくあの場所にいたくなかった。どこか遠くへ行きたかった。
なんでなんだろう。何か悲しいことがあったような気がする。
そういえば、ただ一人、自分に優しくしてくれたあの人はどこへ行ったのだろう。
あの人も、あの場所が嫌になってしまったんだろうか。
あれ? あの人はもともとあの場所にいたんだっけ? ……わからない。
車窓から流れる景色が途端に暗転した。トンネルに入ったらしい。
みすぼらしい自分が窓に映る。見たくないものを見てしまった。
また目を逸らすように瞼を下ろした。


第三章『拒絶と焦燥』

身体を揺さぶられる感覚を覚え、途端に意識が覚醒する。
眼を開けると迷惑そうな顔をした、車掌と思しき人がこちらを覗いていた。
どうやらとっくに終点に着いていたらしい。
逃げるようにして車内から飛び出した。
改札を抜けると潮の匂いがした。海が近いのだろうか。
行く当てもなし、海の方へ歩いてみよう。
……そういえば、前にもあの人と海へ行った気がする。
瞬間、頭を割れるような痛みが襲った。
思い出したくないような、思い出さなければならないような、相反した感覚。
立っていることもままならず、蹲ってしまう。
この感覚はなんだろう。この痛みはどこから来るんだろう。
痛くて痛くてたまらない。それでも行かなきゃならないような。
なんでなんだろう。何があるんだろう。何があったんだろう。
行けばわかるのか。この痛みの理由も、何もわからない日々の答えも。
なら、行かなくちゃ。
なんとか身体を起こして、引きずるように道を歩く。
なだらかな坂を下り、曲がり角を抜けると海岸に着いた。
頭に一層強い痛みが走る。また蹲ってしまう。
痛い。思い出したくない。嫌だ。痛い。苦しい。思い出さなきゃ。痛い。

痛い。

嗚呼、そうか。思い出した。
渇いた記憶を呼び覚ますような涙が、頬を伝った。


最終章『海と追憶』

どれほど泣いていたのだろう。
気が付けば、太陽は水平線の奥に沈み、空は藍色に染まっていた。
どうして忘れていたんだろう。
あの人はもういないんだ。もう二度と会えないところに行ってしまった。
僅かにオレンジ色を映した海を眺めながら、あの人を想い出す。
いっしょに過ごした景色。いっしょに過ごした時間。笑顔。言葉。涙。
優しくしてくれた。励ましてくれた。
叱ってくれた。肯定してくれた。
でも、それももう、追憶の中でしかない。
湧き上がる悲しみが瞳からまた溢れ落ちた。
このまま悲しみといっしょに、全部全部溢れ落ちてしまえばいいのに。
頭痛はすっかり治まっていたが、痛い方が、苦しい方が良かったかもしれない。
……いや、それは違うか。
どんなに苦しくても、この記憶だけはなくしちゃいけなかったんだ。
思い出せて良かった。もう二度と忘れない。

……さて、そろそろ行こうか。もうここに用は無い。
「帰ろう。」
そう独り言ちて歩き出す。
上を見上げると、空がどこまでも深い藍色で染まっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?