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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 95

失われた時を求めて

10巻、293ページまで。大変バタバタした日々を過ごし、またもや前回から一ヶ月空いた。「失われた時を求めて」を読んで何かを書く余裕が全然なかった。この調子ではいつまで経っても読み終わらないと思って再開。

続くアルベルチーヌと主人公の共同生活。父母は不在。召使いのフランソワーズはそばにいる。自分の不安を増やさないために、アルベルチーヌを軟禁状態にしている主人公。しかしアルベルチーヌに対して意地悪な態度をとっているという自覚があり、相変わらず歪んだ愛情表現だ。

過去に3巻でも、ジルベルトに対して身勝手な態度を取り、相手を試すような言動を繰り返していたおかげで結局よくわからないまま別れることになっていた。そういう行為を繰り返すのが主人公の恋愛の形。

主人公は、眠っているアルベルチーヌは嘘をつかないし裏切らないと安心する。起きているときは本性の探り合い、化かし合い、優位の奪い合いといった、戦闘か交渉のような恋愛を続けている。これは主人公の一人相撲の可能性も高く、アルベルチーヌは振り回されているだけかもしれない。巻き込まれたらたまったもんじゃない。

「失われた時を求めて」はだいたい同じようなことを長々とやっている本で、中身についてはけっこうどうでもよくなってきた。この本を読み続ける行為は、内容、意味を読み進めるというより、本の中の空気に浸る感じが強い。19世紀末から20世紀初頭におけるパリの、ブルジョア階級の空気に浸る。物語ではなく文体を読むというのはこういことなのだろう。

歌の曲と歌詞の関係にも似ている。歌詞を読み解くのではなく、音楽を聴いている。「失われた時を求めて」の文章も、そういう読み方が板についてきた。これはもしかすると、先日保坂和志の「プレーンソング」を読んだ影響もあるかもしれない。意味を真面目に考えるのが無意味に思えてきて。

そうなるとますます「失われた時を求めて」について書くことがなくなる。

プルーストを読む生活

501ページまで。著者はトークイベントを見に行った後、喫茶店へ入り、本を読む自分の姿に酔っている。自分の行動や、周りを含めた情景の描写、それに対する評価まで、終始一貫して外側から自分を眺め「いい感じ」と肯定している。これが自己肯定感が高いというか、自惚れというか、ナルシシズムなんだろうか。それが悪いとかでは全然ないんです。

著者は作家のトークイベントに参加する姿勢として、「読者の実体を作者に見せる義務感」などと言っている。自分でも謎の義務感と言っていて、よくわからない。僕は作家のトークイベントだったり、朗読会だったり、サイン会のようなものには参加したことがない。近くでやっていればミーハー心でチラ見ぐらいはしてみたいけれど、参加したいとは思わないなー。

市内の丸善でもときどきトークイベントやサイン会のようなものが行われている。独立系書店でもときどきやっている。作者に対する興味は、作者自身が面白いと感じたときに初めて持つから、普段は作品と切り離されている。ファン精神が足りないのだろうか。でも著者だって、ファンだからトークイベントに行くわけではないだろう。

著者はこの時期、10冊ほど同時に本を読んでいるようだ。僕は2冊が限界だから、10冊なんて同時に読み出すと管理も整理もしきれなくなる。そのうち8割は止まって忘れていってしまうだろう。著者が作品に求める好みの要素は「脱線、メタ、食いしん坊」だそうだ。ルフィみたいなだろうか。自分はなんだろう?思い浮かべてみた。「移動、ディテール、宗教」かな。最後の一つは海とか宇宙とか街とか迷った。すべての要素が一つの作品に含まれていることはあまりない。夏目漱石の「行人」は3つ全てを備えているかな。

久しぶりに「失われた時を求めて」についての記述が出てきた。いつぶりだろう?30ページは触れていなかった。

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