見出し画像

「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 121

失われた時を求めて

13巻、419ページまで。主人公が迷い込んだホテルは、シャルリュス男爵のお金を元にジュピアンが経営する、男娼の娼館なのかな…。各国の兵士や肉体労働の若者たちが、金持ちの男性相手に身体を売っている。こういうところに客として通う男性というのは、本当に同性愛者なのだろうか。それともただ普通の性愛に飽きてしまった、金持ち特有の好き者ではないか。両方いるのか、両者は明確に区別がつくのか、わからない。

サン=ルーが戦線で亡くなる。主人公の大切な人たちは、早逝する。残された主人公。死という概念について、深読みしている。これはまだ宗教の影響が強かった時代、死が幻想的だった時代の名残りだろうか。今でもそういう死の意味みたいなことを考える人は、全然珍しくないか。

療養からパリに戻ってきた主人公は、己の感性の枯渇から、作家にはなれないと感じる。そして感性豊かだった頃の自分の面影に触れたいと思い、ゲルマント大公家の社交界へ足を運ぶ。この頃はきっともう戦争が終わっているのだろう。明言されずいきなり、こういう戦争からかけ離れた展開になる。

移転したゲルマント大公の家に、車で向かう主人公。かつてと違う場所へ、かつてと違う手段で向かう描写は、時間の経過を醸し出す。社交界と言えば、馬車で向かった。向かう先は、貴族の邸宅が並ぶ一等地だった。主人公は車の窓から、パリの街を眺める。幼い頃から何度も行き交った通りには、ジルベルトや、アルベルチーヌや、ゲルマント夫人、彼女らと連れ添ったその頃の自分の姿が浮かぶ。

長く暮らしていると、住み慣れた街でもふとした瞬間にその場所と、そこにいた過去の自分を鮮明に垣間見ることがある。主人公も僕も、生まれ育った町に今も住んでいるから、そういうことが起こるのかもしれない。その町に生きた年数だけ、思い出がある。失われた時間、いなくなった人が、街角の記憶として隠れている。

こうやって一人の人間の人生を書く「失われた時を求めて」を、最初からもう一度読むという行為はどんな気分だろう。人生二周目のような不思議な気分になるんじゃないか。まだ全然読み終わってないです。

プルーストを読む生活

647ページまで。人は一人では生きられない、と書かれていた。僕はこれを言う人が一人で生きられないだけであり、一人で生きている人はいくらでもいるだろ、といつも思う。人は、ではなく「あなたは」一人では生きられない、生きたくない、一人になりたくないだけではないか。

「人は一人では生きられない」とはどういう意味か。完全に自給自足している人はどうなるのか。複数の人が助け合ったほうが便利なのは確かだけど、そういうのを捨てて一人で生きる人の存在を、僕は否定したくない。

人の助けなしでは効率が悪いかもしれない。長生きできないかもしれない。では短くて非効率な時間は、人の生活ではないのか。人生と呼べないのだろうか。人はいずれ死ぬのだから、長かろうが短かろうが、一人であろうが複数であろうが、効率的に助け合おうと一人で非効率に足掻こうと、等しく人生である。

僕は今の生活に満足しているけれど、できることなら一人で生きたかった側面もある。僕の場合は能力がなかっただけで、一人で生きられる人が一人で生きていることは、単純にうらやましい。だから一人で生きる人を尊重したい。「人は一人では生きられない」という言葉は全部、「あなたが一人で生きられない」に訂正したい。なんなら僕を含めてもいい。でも僕だって本当は、一人で生きられるんじゃないかとずっと思っている。やっていないだけで。

むしろ、物質的にも観念的にも人は常に一人だ。どれだけ人と繋がろうとしても、その事実は変わらない。

サポートいただけると店舗がその分だけ充実します。明日への投資!