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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 85

失われた時を求めて

9巻、343ページまで。前回から10日空いてしまった。その間にも「失われた時を求めて」は読み進めていたものの、毎日というわけにはいかず、バタバタと日々を過ごしている。これを書いている今は2月の下旬、日によってはまだ雪がちらついていたりする。

ラ・ラスプリエール(ヴェルデュラン夫妻の別荘)で行われている「水曜の会」が終わり、主人公はバルベックのグランドホテルへと帰る。シャルリュス氏がグランドホテルの給仕頭エメをしつこく誘う。シャルリュス氏は8巻「ソドムとゴモラ」からは完全にそういう人物として描かれるようになった。手当り次第、節操がない。

主人公とアルベルチーヌが自動車に乗る場面が出てくる。この時代はまだ、馬車での移動が主で、車の話は既に出てきていたものの、乗る場面は初めて。長距離を短時間で移動できる画期的な乗り物として紹介されている。車の登場は、プルーストの距離と時間の感覚を変えてしまったようだ。

距離と時間の話はこれまでにもあった。祖母と電話で話すときや、もっと前に1巻の子供の頃を振り返る場面。この日記で言うところの645にあたる。「遠い」という感覚は、行き先までの距離が長いから「遠い」わけだけど、体感としては行き先まで到着するのに時間がかかるため「遠い」と感じる。

しかし車という新たな移動手段により、時間がかかっていた場所へ短時間で移動できるようになった。それはまるで、体感として「遠かった」場所が、あたかも「近づいた」かのような錯覚を生む。車や電話といった発明により、「遠い」という感覚、概念もこの時代に更新されている。

距離というものは、空間がつくる時間との関係にほかならず、その関係によって変化する。ある場所へ行くのがどれほど困難であるかを、われわれは何里も何キロも要すると表現しているが、そうした表現はその困難が減少したとたんに絵空ごとになる。それによって芸術も変更を余儀なくされる。というのも、ある村とはまるで別世界に存在すると思われたべつの村も、距離が一変した風景のなかでは隣村になるからだ。

9巻 P333

主人公とアルベルチーヌは、車でヴェルデュラン夫妻の家を訪ねている。この日は「水曜の会」ではなく、ただの挨拶。

プルーストを読む生活

433ページまで。「プルーストを読む生活」に「失われた時を求めて」を追い越されているけれど、1ページだけ読んだ。また保坂和志の話をしていた。「小説の自由」という本について。今回は内容に触れられていないが、吉田健一という名前が出てきた。その人も知らない。保坂和志も読んだことない。調べてみると、文芸評論家・翻訳者だった。

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