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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 111

失われた時を求めて

12巻、268ページまで。主人公とアルベルチーヌの恋愛が終わってから、主人公はずっとその別離に苦しんでいる。そろそろネタバレするが、アルベルチーヌは馬車の事故で亡くなってしまい、主人公は大きなショックを受けている。

私はアルベルチーヌにもう二度と会えなくてもいい、むしろ嬉しいくらいだと想いこんでいたが、遺憾ながらそれが勘違いであることはアルベルチーヌが出奔するまでわからなかった。それと同様、 アルベルチーヌが死んではじめて私は、ときにアルベルチーヌの死を願い、その死が自分を解放してくれるだろうと想像したのがいかに間違っていたかを痛感した。
12巻 P218
私はなにも考えまいと努め、新聞を手にとろうとした。ところが、現に苦痛を感じていない人たちの書いた文章を読むのは私には耐えられないことだった。
12巻 P234
ただ新聞を開く動作をするだけで、アルベルチーヌが生前に同様の動作をしたことと同時に、アルベルチーヌがもはや生きていないことが想い出されたからで、私は最後までめくる力もなく新聞を落としてしまうのだった。
12巻 P236

ノイローゼ気味だと言える。まあでもこういうことは実際にあって、最近父親を亡くした身としてはこの手の苦しみがよくわかる。

話は逸れるけれど、6巻で主人公の祖母が亡くなり、それ以降主人公の母が祖母の真似を始めるという話が何度か出てきた。真似という言い方はちょっと違うかもしれない。例えば主人公の母は、祖母の死後、祖母が自分の人生の指針として読み続けていたセヴィニエ夫人の本を読み、その言葉を引用するようになる。似てくるというか、祖母だったらこうしただろう、祖母だったらこう言うだろうというように、言動を寄せていく。

僕も父が死んでから、少しそういうところがある。父だったらこう言ったかもしれない、という言葉がつい口から出そうになることがある。それは自分の中に父が生きている証拠を確認したいのか、もしくは自分を通じて父の存在を周りに感じてほしいという気持ちがあるのかもしれない。

主人公の母が、亡くなった祖母の話ばかりをするようになったのと同様に、僕は父の話ばかりするようになった。父の存在を、何らかの形で、自分の中や周りの人々の中に留めようとしている。このあたりの章とは直接関係ない話。

プルーストを読む生活

591ページまで。「失われた時を求めて」の引用が出てきたが、読んだ覚えがない内容だった。また追い抜かされているのだろうか。著者はまた夫婦のノロケ話を書いている。この人はよく奥さんを褒めたり自慢したり夫婦ノロケを書いている。そういうことを書く自分が好きらしい。

僕はここではあまりそういう話はしないけれど、それはなんというか、そんなことを書くのが照れくさいとかではなく、気持ち悪いからで、気持ち悪いものを公開するのは恥ずかしいと思ってしまう。脱糞動画をYouTubeに載せるような気分。ただ別にそれを気持ち悪いとか恥ずかしいと思わない人がそれをやっていても自由なわけで、僕が今書いているこれも脱糞に値すると思う人だって少なからずいるだろう。

いわく、著者夫婦は初めから好意を抱いてたわけではないらしい。だから運命の出会いでも唯一の人でもなく、何も無いところから自分たちで関係を築いてきたそうだ。一緒にポッドキャストをやっているカワムラさんは、今の奥さんと初めて出会ったときに、最初に結婚すると思ったそうだ。本当かどうかは知らないけれど、そういう言い草が運命とかに結びつけたがるやつなのかな。

僕は全くそんなことなかった。奥さんとたまたま知り合ってラッキーとは思っている。結婚してからはお互いに向き合う努力をしているけれど、結婚に至るまでは、僕が一方的にけっこう頑張った。それが結果的にちゃんと相手に伝わって、なんとかこぎ着けた。だからうちは決して、なんとなく運命の出会いなんて言葉で語れない。

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