「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 112
失われた時を求めて
12巻、305ページまで。主人公のアルベルチーヌを思うターンがずっと続いている。アルベルチーヌは亡くなったものの、主人公の夢の中に繰り返し登場する。かつて亡くした祖母も登場する。主人公の夢の中で生き続ける祖母とアルベルチーヌ。
現実世界においては、思い出に苦しむ。例えばバルベックのグランドホテルなど、祖母ともアルベルチーヌとも思い出が多すぎて、とても訪ねることができない。そういう話はずっと、100ページ以上も割かれて続いている。その気持ちは未練というより、ただ別離の苦しみ。
主人公は、アルベルチーヌ亡き後もまだアルベルチーヌが同性と浮気していた疑惑にこだわっており、エメに現地へ向かわせ調査させたりしていた。今度は主人公とアルベルチーヌの共通の友達であるアンドレにかまをかける。アンドレ自身は同性愛者であることをあっけらかんと認めたものの、アルベルチーヌとは関係を持ったことがなく、そもそもアルベルチーヌにそういう疑いがないと証言する。エメの調査と真逆の結論が導かれた。
どちらかが嘘をついている。もはやどっちでもいいんじゃないかと、読んでいる人はみんな思っている(きっと)。いつまでたってもアルベルチーヌの粗探しがやめられない主人公。これも恋愛のなのか?愛の形?よくわからん。
プルーストを読む生活
595ページまで。著者は飛田新地の本を読んでいる。過去に現地に行ったことがあるらしい。僕は飛田新地の存在をずっと知らなかった。大人になって、大阪で勤めだしてから会社の人が車で通り、初めて知った。そのときチラ見しただけで、足を踏み入れたことがない。元遊郭の、普通に食事をするだけの店もあるようだ。そこにも結局行ったことがない。縁がなかったのだろう。
著者は好奇心で行ったと言っている。僕もバンコクの売春街やニューヨークのハーレム、パレスチナもエルサレムも好奇心で訪れた。同じようなものだろう。この手の好奇心に後ろめたさ、不謹慎な気持ちがないわけではない。その気持ちとどう向き合うかは、けっこう難しい。興味と後ろめたさを天秤にかけたとき、たいてい興味が勝ってしまう。
この手の話は小林紀晴「愛のかたち」やスーザン・ソンタグ「他者の苦痛へのまなざし」でも語られていた。自分の内側にある本質として、好奇心も後ろめたさも否定できない。好奇心を動機にして、どこまでやっていいのか。ボランティアや取材といった建前が立派だったら許されるのか。そもそも許される必要はあるのか。
「失われた時を求めて」がずっとアルベルチーヌの死を嘆いている下りが続いており、著者は食傷気味になっている。この流れまだ続くの?いつまで続くの?と同じことを思っている。みんなそうなるところ。
著者はゼルダばかりやっている。ゴロンの里を救ったのに、誰も感謝してくれないと不満げな様子。僕は全くそんなこと思わなかった。ゲームの感想に性格が出る。先日会った人が、割と近い時期にブレスオブザワイルドを始めていて、ゾーラの里の英傑ミファーの話にめっちゃ泣いたと言っていた。僕の反応があまりに薄く、驚かれた。かわいそうだとは思ったけど、泣きはしなかったなー。
著者はマスターソードというのを手に入れていた。僕はまだそんな剣の存在知らないぞ。
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