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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 107

失われた時を求めて

11巻、516ページまで。11巻が読み終わった。永遠に続くかと思われた10巻ほどではないにしても、感無量。11巻を読み始めたのは6月8日で、今が7月22日。一ヶ月半かかった。

主人公は相変わらずアルベルチーヌの本心がわからないまま、嫉妬心と不安を紛らわせるため自宅に囲っている。囲うことでアルベルチーヌの行動を管理できるようになっても、心を所有できないと嘆いている。しかし同時に主人公は安心するとアルベルチーヌに対する興味を失うから、嫉妬することでアルベルチーヌへの関心を保っている。

このあたりは10巻の冒頭から繰り返し語られていることで、何も目新しいところはない。11巻で明らかになったことは、アルベルチーヌの虚言が主人公の妄想ではなく本当だったこと。今回読んだ部分においても、アルベルチーヌの叔母であるボンタン夫人の発言からまた、アルベルチーヌの虚言が一つ発覚する。

主人公はそのことを暗にアルベルチーヌに問い詰める。主人公の知ってるふり作戦により、アルベルチーヌは自分がついていた嘘をまたいくつも暴露する。主人公は内心焦りながらも余裕をかまし、というくだりも前回までの繰り返し。

主人公は、アルベルチーヌが嘘をつくことよりも、それでも自分のもとを離れないであろうという安心にうんざりし、またもやアルベルチーヌと別れたくなる。アルベルチーヌがいなければ憧れのヴェネツィアへ旅行したり、別の女性と親しくなったりできるのに。アルベルチーヌと一緒に旅行すればいいと思うけど、アルベルチーヌを外に出すといろんな人に目移りして、浮気されることが心配で、主人公はとても一緒に旅行なんてできない。

すごく矛盾しているというか、都合がいいというか、僕にはよくわからない。それで主人公はもうこれで何度目かわからないけれど、またアルベルチーヌと別れようと画策する。アルベルチーヌの部屋を離れると、急にアルベルチーヌの部屋の窓が開く音がして動揺する主人公。特になにもなかった。

アルベルチーヌと別れてヴェネツィアへ行こうとしていた矢先、アルベルチーヌに先を越される。ついにアルベルチーヌが主人公の家を出ていった。荷物も全部持って出ていった。全14巻の「失われた時を求めて」もあと12,13,14巻の3冊になり、ようやく架橋に入ってきた気がする。いやーまだまだ長い。アルベルチーヌの話だけで終わらないでくれ。長過ぎる。

プルーストを読む生活

565ページまで。しいたけ占いの話が出てきた。名前だけ知っているけれど、しいたけ占いがどういうものなのか詳しくは知らない。そういえば最近、占いについて話題になっていた。

安倍元首相が暗殺された事件、あれは旧統一教会に対する恨みに端を発するとか。それがどう占いと繋がるのかというと、旧統一教会は霊感商法のようなもので信者から大金を巻き上げており、それを批判している記事があった。そこに「占いも同じ」というようなことが書かれていたとか。つまり、占いも霊感商法みたいなもので、インチキでお金を巻き上げる悪質な商売であると。僕はその記事を読んでいないから詳しくは知らない。

僕が読んだのは、そこからさらに派生した別の内容。そこでは「女は占いが好きで、男は嫌い(バカにする)。なぜなのか?」というような話がテーマだった。僕は全然占いに興味がないから、この場合どちらかというと男側なんだけど、男でもおみくじは引くし中国の男性ビジネスマンだったり政治家も易学を重視するから、一概には言えない。この話題がどういう方向に落ち着いたのか気になる。きっと落ち着いてないのだろう。

「プルーストを読む生活」に珍しく「失われた時を求めて」の話が出てきた。主人公のアルベルチーヌに対する向き合い方を、著者は嫌な気持ちになりながら遠くから眺めている。

恋愛が暇を持て余した人たちのエンターテインメントだった時代があったということかもしれない。それは今もそうなのかもしれないけれど。

P564

今もそうだと思う。少なくとも、恋愛を切実なものとしてではなく、ゲームのように楽しんでいる人たちは現代にも大勢いる。「遊び」の手段として恋愛を選んでいる人たちは、形はどうあれみんなそうなんじゃないか。

ただ「失われた時を求めて」の主人公の場合は、現代の恋愛観ともまた違った、屈折したものを感じる。主人公は決して恋愛に長けているように見えず、そもそもコミュニケーションが得意だとは思えない。意識的に人をもてあそべる能力はない。いつも間違った努力を頑張っており、無駄に必死。恋愛をゲームとして楽しむような余裕はまったく伺えない。

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