「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 120
失われた時を求めて
13巻、323ページまで。作中で亡くなった人たちが、新たに示される。主人公の祖母の友人であり、サン=ルーやゲルマント夫人の親族であるヴィルパリジ夫人、「水曜の会」を主催するヴェルデュラン夫妻の夫の方ヴィエルデュラン氏、そして「水曜の会」のメンバーだったコタール医師。戦時下だけど、いずれも戦争による死去ではなく、年齢であったり病気による。
「失われた時を求めて」の作中では長く登場した人たちで、先になくなったスワンもそうだけど、作中で過ぎた膨大な時間の流れを感じさせる。「百年の孤独」みたいに何世代にも渡ることはないけれど、主人公の幼少期から成人である現在まで、徐々に確実に時間が過ぎていった。
この作品は大半が主人公にまつわる周りの人たちの話で占められている。各登場人物の、うわさ話を集めたような構成になっている。でも群像劇ではなく主人公は飽くまで一人であり、作者の視点と入り混じって周囲の人物のことを語る。作者はこれらを余談と言ってしまっており、そうなってくると「失われた時を求めて」のほとんどは余談の詰め込みだと言える。要素をたくさん詰め込んで、時代の空気感を忠実に表現したかったのだろうか。
余談として語られていたソルボンヌ大学教授のブリショは、ヴェルデュラン夫人からいびられるようになった。ヴェルデュラン夫人は「水曜の会」のメンバーが他の場所で活躍すると片っ端からいびる。ブリショはヴェルデュラン夫人の嫌悪する社交界で重宝がられるようになったため、その標的になった。この人はずっとこんなことをしている。
余談が終わり、主人公とシャルリュス氏の立ち話に戻る。シャルリュス氏はランス大聖堂のような文化財が戦争で破壊されることよりも、フランスの若者の命が失われることのほうが嘆かわしいと言う。現代でも戦争やテロ活動で世界遺産が破壊されることが問題になることがある。その傍らには、必ずと言っていいほど失われている人命があり、文化財の保護は確かに大事だけど、人命が軽んじられているようにも見えなくない。
人命がどれほど重要かというのも、結局は主観でしかなく、あまり相対化できない話のように思える。自分にとって大切な人以外は、けっこうどうでもいい。物も同じで、自分と他人とでは大切にする物が全然違うから、一概には言えない。ひとくくりに「人命尊し」とか「文化財の保護を」と言うのは綺麗事というか、建前の話ではないか。みんな本当に大事にしている人、モノ以外はさほど大事に思っていないだろう。
主人公とシャルリュスの会話からは、アメリカの参戦の話が聞こえてくる。第一次世界大戦はもう終わりに差し掛かっているようだ。この会話が行われているのはおそらく1917年で、13巻の序盤で始まったばかりだった第一次世界大戦も、この様子だと13巻中に終戦となる。
話の終わりにシャルリュス氏の後日談として、シャルリュス氏と恋人モレルの顛末が語られる。この物語ではたびたびこうやって、時間が行き来するから、今がいつで、主人公が何歳なのかわからなくなる。
シャルリュス氏と別れて一人になった主人公は、のどが渇いて立ち寄ったホテルでSMプレイ中のシャルリュス氏を見かける。この時代からこんなんあったんだな。
プルーストを読む生活
642ページまで。著者はバーフバリをボリウッドだと思っているようだ。けっこうそういう人が多いのだろうか。バーフバリのようなテルグ語圏映画はトリウッドと呼ぶらしい。他にもコリウッドとかモリウッドとかあるそうだ。全部インド映画。
著者は共同体のなんとかの本を読んでいる。日本だと東北の震災以降に共同体とかそういうのが流行った印象がある。シェアハウスもその前後から当たり前になってきた。サンデルの本に出てきた、コミュニタリアニズムとかもあった。今はめっきり聞かなくなったなーコミュニティの幻想は崩れたのだろうか、それとも当たり前になったか、よくわからない。
著者が読んでいる本には、共同体は理念よりも感情と習慣が大事、みたいなことが書いてあるらしい。人は結局ぬるさに引っ張られるということなのだろう。ぬるコミュニティのほうが続くのは、娯楽性が高いからじゃないだろうか。でもそれじゃあまるで客のようだ。メンバーとは呼び難い。
僕も一時期、ある種のコミュニティに幻想を持っていた。それは、あまり現実的ではなかった。コミュニティは便乗する人がいるから成り立つもので、便乗を促すのはめんどくさいと思った。利害の一致が難しい。僕自身があまり人と何かを一緒にやることを好まないから、コミュニティは向いていなかった。僕が理想とするコミュニティは、場所だけがあって、各々自由に協調しないで行動するやつ。
サポートいただけると店舗がその分だけ充実します。明日への投資!