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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 124

失われた時を求めて

14巻、229ページまで。引き続き、ゲルマント大公妃邸のパーティー。この主催者であるゲルマント大公妃とは、過去に出てきたゲルマント大公妃とは全くの別人だった。前のゲルマント大公妃は亡くなり、ゲルマント大公は再婚している。その相手とは、未亡人だったヴェルデュラン夫人。ヴェルデュラン氏は第一次世界大戦の間に亡くなっており、夫婦の片方を亡くした者同士が再婚した。現在ゲルマント大公妃と名乗っている人の中身は、あれだけ貴族も社交界も嫌っていたヴェルデュラン夫人だった。

ゲルマント大公妃の社交界とは名ばかり、形だけで、今回のそれは全く貴族然としておらず、俗っぽい普通のパーティーとなっている。その理由は、ただ時代が変わっただけでなく、主催者であるゲルマント大公妃が、実はヴェルデュラン夫人だったからというのも大きい。ヴェルデュラン夫人はかつて、貴族の社交界に対抗して、自分たちは芸術家や文化人を集めて「水曜の会」を主催していた。それが今や大貴族となったが、やっていることは以前と変わらず、中身は俗物のままだった。

社交界の新参者は、そういう事情を知らない。ゲルマント大公妃は、かねてよりゲルマント大公妃だと思っている。身分違いの再婚相手だなんて、昔からの知り合いしか知らない。新しい人にとっての歴史は改ざんされ、うやむやになっている。時間が経ち、人が入れ替わると、過去はどうであったかという事実がどんどん薄れていく。

ゲルマント公爵夫人(オリヤーヌ)の話。主人公は、今社交界のこの場にいるゲルマント夫人と、少年時代に憧れていたその人が別人のように見えている。また、青年時代に年上の友人だったゲルマント夫人も。そのときどきの関係性と、自分の相手に対する思いとで、相手は同一人物なのに、全く別の人のように感じている。

僕もかつて付き合っていた人に対して、同じようなことを顕著に思っていた。知り合った頃と、付き合ってからと、別れてからは、全部別人に思える。年齢を重ね、関係性が変わっているのに、同じ人だと言えるだろうか。人間姓も立場も変わらなくても、時期と間柄が違うだけで別人になり得る、あやふやな存在ではないか。

自分自身についても、連続性というものをあまり感じない。すぐ最近のことでなければ、自分の身の回りに起こった多くのことを忘れている。それだけでなく、自分の考えていたことや、主義思想、信条、多くの感情も曖昧になっている。自分の日記を見返すと、まるで他人が書いたものであるかのように新鮮に感じることが多い。自己存在を固定したいと思っているわけではないけれど、個なんていうものは、その瞬間だけのものなんじゃないか。

午餐会という言葉が出てきた。晩餐会は読めるから、文字通りごさんかいと読むらしい。字面は見たことあっても、使ったことのない言葉。お昼の食事会だそうだ。知ったところで多分使うことはない言葉。

女優ラシェルの朗読が始まる。ゲルマント夫人は昔自分の家でラシェル演技をめちゃくちゃけなしていたけれど、記憶違いをしている。この社交界はオールスター感謝祭のような面々で、このまま社交界の説明で小説が終わってしまいそうだ。「失われた時を求めて」のこのあたりは既に、プルーストが亡くなった後に遺稿を編纂した部分であり、まとめることなく突然結末を迎えてもおかしくない。というのは、残りのページが少なくなってきている。

プルーストを読む生活

682ページまで。著者は日記をインデザインで本にして、文フリに出すそうだ。この「プルーストを読む生活」の元になった自主制作の本のことだろう。いろんな人に寄稿してもらっていると書いているから、別の本かもしれない。制作に半年ほど費やしているとか。

「失われた時を求めて」の主人公のモレルを追求するセリフを引用しているけれど、見覚えがない。一体どこを読んでいるのだろう。僕が先に進みすぎてしまって覚えていないだけか。

著者はNetflixをイッキ見したみたいだ。ドラマ1シーズンと映画一本で7時間。僕はもうそんな見方できないなー。映画館で二本立てを見るのもしんどい。ほとんど見たことないけど、2018年にバーフバリ二本立てを見た。あれは長かったけど見れた。ドラマイッキ見は、記憶にない。配信だと、最近は映画一本を続けて見るのもしんどい。アニメの30分でさえつらいときがある。普段はどうでもいい作品をナガラ見して消化している。見たい映画全然見れてない。気力がない。

著者は本を読んで日記を書く、日記を書くために本を読んでいるそうだ。僕は、日記に何を書いたらいいかわからないとき、よく他人の日記を読む。もしくはネット上に公開されている他人の日記を読むことで、自分の意見だったり書くことが思い浮かぶことが多い。本を読んで思いついたことを書くというのも、あるにはあるけれどそんな頻繁に本を読まない。

著者の「失われた時を求めて」の読書日記は、サン=ルーの死を過ぎて、失われた時の感覚を知覚するくだりまで来た。僕が122で読んでいたところで、追いついてきている。著者はまるまる1ページ以上長く引用しているものの、「これはすごく面白いぞ」と書いているだけであまり感想らしき感想はない。どれどれの本に似ているとかそれだけ。

著者は切実に働きたくないと思っているようだ。それでも勤勉に働いているようで、そんなもんだよな。僕は会社員を辞めたけど、嫌だからといってなかなか辞めたりしないもんだ。せいぜいましな待遇の会社に転職するぐらいで、食い扶持を稼ぐために嫌でも働く。僕みたいに貯金全額使い果たして海外に住んでそのまま帰ってくるのは、自殺志願者かクレイジーか、何も考えていないかと思われる。僕は一番最後のやつです。それももう10年近く前の話で、今に至っては、結局よくわからない状態になった。

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