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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 100

失われた時を求めて

11巻、119ページまで。またサロンの時間が始まった。10巻にはサロンの描写がなかったから、この「失われた時を求めて」が社交界小説だったことを再び思い知らされる。サロン会場はヴェルデュラン邸。内容はモレルのヴァイオリン演奏会で、曲目はヴァントゥイユ作曲、主催はシャルリュス男爵のようだ。これだけたて続けに人名が出て、どれだけの人が覚えているのか。

ここへ来て、またシャルリュス氏にスポットが当たっている。シャルリュス氏は道化的にオネエ言葉を使うようになった。悲壮感がただよう。けっこう痛々しい扱いを受けており、周りの人もどう対応していいか戸惑っている様子。主人公の、シャルリュス氏に対する印象もどういう立ち位置なのかわからない。尊敬しているのか、哀れんでいるのか。少なくとも他の人のように、怖がっていたり嫌っているわけではなさそう。

この場では深く追求されないけれど、モレルがレアという女性と親しいことが発覚する。レアとは同性愛者であり、アルベルチーヌと疑いのあった女性だ。モレルは男性でシャルリュス氏の愛人だけど、レアからは女性として扱われている。それでシャルリュス氏の嫉妬の対象となる。ややこしい。

モレルにはジュピアンの姪という婚約者がいたが、ストレートの女性にはシャルリュス氏は嫉妬しないらしい。性指向によって嫉妬の対象になるとかならないとか、そういうのあるのかな。よくわからない。

社交界で、またドレフュス事件の話。当時のフランス社会で大問題だったにしろ、当事者でもないのに長くもつ話題だなー。ヴェルデュラン夫人はドレフュス派で作家などを自身のサロンに招いたが、保守的な反ドレフュス派の貴婦人たちから煙たがられていた。貴族でもなく、社交界では異端の存在であるヴェルデュラン。

プルーストを読む生活

「プルーストを読む生活」はこのあたり引用祭りなので省略。引用は前後の文脈やそれについての解説ありきで成り立つものだと思っているから、ここで行われているのはただ文を引き抜いただけで、引用とも言えない。僕も引用はするけれど、文章をただ載せるだけってことはしない。

著者はお気に入りの文章を集めた感じだろうか。僕は文章単体に感動するってことがあまりなくて、例えばその表現だとか、比喩だとかが美しいとか言って、小手先の技に感銘を受けることがほとんどない。どちらかというと見過ごすぐらい。

文学における文体の良さとなると、単体の文章ではなく作品全体を指す。そこから部分引用したものは単に例文でしかなく、例文単体では文体の良さもあまり伝わらないことが多い。

僕自身は、文体はすなわち内容に通じると思っている。作品の中身も含めての文体であり、だから尚さら文章単体でその価値を測るには無理がある。ましてや部分引用でその良さは何も感じ取れない。せいぜい雰囲気だけ。ただ世の中にはその雰囲気だけで良し悪しを測る人も多くいる。雰囲気イケメンでもモテる人はモテるのだ。

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