「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 123
失われた時を求めて
14巻、104ページまで。さて、この「失われた時を求めて」も最終巻に入りました。残りわずか、ゆっくり読み進めることにしよう。前巻の終わり、主人公はアートの本質について確信を深め、物思いにふけっていたが、舞台はゲルマント大公邸の社交界に戻る。
主人公は療養から復帰して以来の久しぶりの社交界で、過去に見知った人々と挨拶を交わすが、最初誰だかわからなかった。出会う人出会う人、その老けっぷりに驚く。
主人公は同級生のブロックを老人扱いしておきながらも、周囲から自分の老いを突きつけられてショックを受ける。いつもながらこの主人公は、棚上げが甚だしい。その様子はいつもながら滑稽としか言えない。
いや君たちいったい何歳なんだ?ブロックとジルベルトと主人公はだいたい同年代のはずで、僕の見積もりでは30代ぐらいのはずだったんだけど、もっと遥かに時間が経っていたのだろうか。それとも100年以上前の30代は初老と呼ばれてもおかしくないのか。この「今何歳?」問題は、「失われた時を求めて」を読むにあたり最初からずっと付きまとってきた。
主人公はこの社交界で、これまで作中に登場したありとあらゆる旧知の人と、挨拶を交わす。その面々は総じて年老いており、さながら同窓会のようだ。ゲルマント夫人ことオリヤーヌ、サン=ルーと結婚した幼馴染のジルベルト、旧友ブロックのように何度も登場した人だけでなく、シャテルロー公爵、アルジャンクール氏、カンブルメール氏、ルグランダンといった、もう誰だったかあやふやな人たちまで勢揃いしている。
主人公はひたすら老化について言及している。あまりにひどい言い草もあった。
これはわざわざ言わないといけないことなのか。その後も元スワン夫人オデットや、モレルが登場したり、ヴェルデュラン夫人まで出てきたり、オールスターさながらの賑わい。亡くなった人以外はほぼ登場人物が集まっている。そしてそれぞれの人物について説明があり、この小説を象徴するような社交界小説の内容になってきた。
さらに社交界にふさわしくないと思われていたような人や、主人公が知らない人も多く参加している。かつて貴族や社交人士たちの交流の場だった社交界とは、意味合いが変わってきているようだ。時代が変わり、階級の区別も緩くなり、社交界はただのパーティーになった。余計に老人たちの同窓会らしく見えてくる。
プルーストを読む生活
665ページまで。著者はストラグル、ストラグル連呼している。この言葉ってそんなに常用日本語カタカナだっけ。「読書の日記」でも見かけたような気がするから、保坂和志あたりがよく言っているのだろうか、それともなんかそういう哲学界隈の人がよく言うのだろうか。著者が好きな言葉なんだろうけど、毎回ピンとこないから葛藤とか言ってほしい。IT業界の人や若手社会人のカタカナ用語連発みたいだ。若い頃はよくやってた。
僕がよく使っていた用語はなんだろう、エビデンスとかは僕が会社員の頃からあった。NOIとかレンダーとかは業界用語だったなー。もう全然覚えていない。普段使うカタカナ用語あまりない。リスケとMTGとかもあまり使わない。東京の人がよく言いたがるのかもしれない。
著者は自分の奥さんを「奥さん」と呼んでいるそうだ。由来は「小さなお茶会」のぷりん奥さんだって、なにそれ。調べてみると少女漫画らしい。つまり奥さんを「奥さん」と呼ぶのはあだ名のようなものなんだとか。へえ、そうなんですか、めんどくさいですね。
著者は「男性」であり「先進国」に住む「既婚の正社員」であるという特権的ポジションにいることに、加害者の引け目を感じているらしい。しかもその立場から異議を唱えるべきだと思っているそうだ。
僕も似たような立場だけど、加害者の引け目なんて感じない。男性であることも先進国に生まれたのも、僕のせいではない。正社員ではないが、結婚したのだってたまたまだ。恵まれていようが加害者と言われようが、僕に責任はない。僕の生活が多くの人の犠牲の元に成り立っていようと、「知らんがな」と思う。自分は自分の生活に精一杯で、毎日頭を抱えている。見ず知らずの他人の人生に責任を感じるほどの余裕はない。「異議を唱えるべきだ」と思う人が、思って自己満足にふけっているだけじゃなくて、どうぞ行動してください。加害者の引け目を感じているなら、人生をかけてそれと向き合えばいいんじゃないかな。僕にはそんな余裕ない。
サポートいただけると店舗がその分だけ充実します。明日への投資!