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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 125

失われた時を求めて

14巻、303ページまで。元スワン夫人であるオデットと不倫してるゲルマント公爵、若い男に入れ込んで落ちぶれてしまったシャルリュス男爵、新しい興味を追い求めるあまり社交界での地位が落ちてしまったゲルマント公爵夫人。かつて揺るぎないと思われていた名門ゲルマント家の、栄枯盛衰が語られている。

アメリカのことを思った。アメリカの経済や軍事力が世界一であることを疑っておらず、まだ当分続くだろうと思っている。いずれ覇権を失うとしても、近い未来ではないだろう。生まれてから今までずっと、アメリカは世界一の大国だった。だから、生きているうちはそのままなんじゃないかと盲信しているところがある。

アメリカが覇権国家だった時代なんて、せいぜい第一次世界大戦ぐらいからじゃないだろうか。まだ100年ぐらいしか経っていない。大英帝国も、ローマ帝国も、世界一だった時代はもっと長かった。それに比べるとアメリカなんて、取るに足らない、吹けば飛ぶ存在かもしれない。中国が覇権を握った未来が訪れたら悲惨なことになる。

好みでない相手と大恋愛する仕組みについて語られている。

われわれは自分の「好みでもない」女たちを警戒することはなく、こちらを愛してくれるがままに放置するだけであるが、その後こちらがその女を愛するようになると、ほかの女たちより何倍も何倍も愛してしまい、しかもその女から欲望を 満足させられることはないのだ。

14巻 P244

これはよく言う、告白された側が徐々に相手を好きになるのと同時に、告白した側が徐々に冷めてしまう話に近い。この手の話は人に好かれる人の論理であって、僕みたいに自分から言い寄ったことしかなく、相手から振られたことしかない人間には当てはまらない。ただプルーストに言わせると、嫉妬すればするほど大恋愛みたいな理屈だから、そもそも僕の恋愛観とは全く当てはまらない。

主人公は16歳になったサン=ルーとジルベルトの娘を紹介される。彼女に至るまでの、さまざまな人の縁に思いを巡らす。主人公はさんざん友情は無意味だと言ったり、人に関心がなく自分のことしか考えていないように振る舞っているから、かえって作中のどの登場人物に対してもえこひいきなく描かれているように思える。個人に対する好き嫌いを感じない。友人であろうと恋人であろうと、いい部分も悪い部分も余すところなく紹介されている。

現実は、人に対する印象として、悪い部分を見ないようにしたり、注目しなかったり、いい人と思い込もうとしていることがある。それはきっと、人を好きでいることの方が心穏やかでいられるからだろう。人を見るときに、良い部分を選んで見てしまっている。もちろん知らないだけということもあるし、もしかすると全然悪いところがない人もいるかもしれない。少なくとも、自分には両面ある。両面が描かれている登場人物は、キャラクター然としていない。描かれ方が誠実で、より人間らしく感じる。

人生についての長い書物が書き始められる。作中でこの書物がどういうものなのか、何を書き示そうとしているのか、ひたすら解説される。物語ではなく書評のように、これから書かれる書物について長々と説明している。この書物とは、言うまでもなく「失われた時を求めて」となる。それにしても、作者が作中で自分で書評してしまう物語というのは、これまで読んだことあっただろうか。自作を自作内で説明する作家。

太宰治とか村上春樹は、説明が下手な人が小説家になるみたいなことを言っていた。言葉でうまく説明できないから物語を書いてなんとなく伝えようとする、と。プルーストに至っては、両方やっている。物語を論拠というか、資料のようなものにして、自分の言いたいことを自分の筆で解説してしまっている。このスタイルはさすがに見たことがない。

さらには文学論や芸術論、執筆の苦労にいたるまで書いてしまっている。自由だ。

私は自分の書物のことをもっと謙虚に考えている。その書物を読んでくれる人たちのことを想定して私の読者と言うなら、それは正確を欠くことになるだろう。なぜならその人たちは、私の考えでは、私の読者ではなく、自分自身の読者だからである。私は書物は、コンブレーのメガネ屋が客に差し出すレンズと同じく一種の拡大鏡にすぎず、私はその人たちに私の書物という自分自身を読むための手立てを提供しているに過ぎないからだ。

14巻 P269

終わってしまった。「失われた時を求めて」は、時を知覚し、表現する物語だった。昔の小説だけど、SF的だと言える。時の座標軸を用いて、空間の次元をもう一つ上げることを目的としている。時は個人に内在しており、行ったり来たり観測できる。時間軸のグラフは、右肩上がりに膨らんでいく。中身は連続している。あれ、プルーストは何が書きたかったんだっけ。13巻の最後の方でまとめられていた。

物語上は、作家志望の少年が成長してテーマを見つけ、作品を書き始めるまで、書いている途中で終わっている。そういう物語の形を使って、プルーストは人生とか、芸術作品の神髄を書き記した。物語だけにとどまらず、わかりやすく(はないけど)説明口調で解説までしてくれた。このあたり、もう一度最後の部分を読み直していいんじゃないか。最後まで読んだけど、もう一回分追加の読書日記を書こう。訳者のあとがきを飛ばしてきたから、14巻分の膨大なあとがきも読みたい。その他「謎とき 失われた時を求めて」など、プルースト関連書籍にもやっと手を出せるようになる。とりあえず読み終えたぞ。

プルーストを読む生活

703ページまで。著者がカニエ・ウエストを聞いている。音楽には疎そうなことを言っている。この本の中で音楽について触れられたことは、あまりなかったような気もする。僕も音楽には疎い方で、楽器とかやったことがない。楽器をやったことがあるかどうかで、音楽リテラシーの格差が一つあるような気がしている。ペットを飼うのと同じぐらい、楽器の経験がある人は多い印象。

著者は「働かない:怠けものと呼ばれた人たち」という本を読んでいる。あまり内容には触れていないけれど、自分も興味ありそうな感じがする。世の中には働かないことについて研究して本を出す人がいるのだ。Amazonで検索したら「働かないふたり」というマンガがやたら出てきた。そういうマンガもあるのだ。25巻も出ているらしい。めっちゃ働いてるやん。

著者の「いない」状態を、強制的に「いる」状態にもっていかなくていいのでは?と思ってしまった。「いない」のは、それはそれでよくないか。夫婦が毎日顔を合わすからといって、必ずしも常に向き合う必要はないだろう。「いない」ことがわかっていれば、そういう日があってもいいと思う。

著者も「失われた時を求めて」の主人公の年齢を気にしている。今となっては、「時」をテーマにするこの作品において「時」を立体的に内包する主人公の年齢は、意図的に省かれていたようにも思えてきた。年齢は時間軸における点でしかなく、主人公はいつだって主人公であった。

著者は自身のマイルドヤンキー性について書いている。身内に優しいそうだ。僕は自分のことを振り返ってみて、あまりそういう傾向はない気がする。良く言えば分け隔てない、博愛、フラット。悪く言えば無関心、無感情、画一的。著者が評価されたりしているのは、そういう点なのかもしれない。素直な欲望の表明だったり、わかりやすいクサさ、かっこつけるところ。僕はそういうのダサいというか、恥ずかしいというかうんざりするブレーキが働いてしまうんだけど、著者はそここそを自信満々でアピールする。著者の、かっこ悪いことをかっこ悪がらない姿勢が、受けているのかもしれない。年一でディズニーに行くとか、それ自体はかっこ悪くないけれど、僕はそんなことわざわざ言わない。

「失われた時を求めて」は終わったけれど、「プルーストを読む生活」はまだ終わらない。あと一回分と、「読まない生活」というのがあった。

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