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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 93

失われた時を求めて

10巻、181ページまで。アルベルチーヌと主人公の共通の友人アンドレ(女性)は、アルベルチーヌの監視役を主人公にさせられている。主人公はアルベルチーヌに対して、本当はアンドレが好きだと言ってみたり、アンドレとアルベルチーヌの仲も疑ってみたり、このあたりの展開はわけがわからないので、「失われた時を求めて」を読み終えた後にでも解説を読んでちゃんと理解したいところだ。

アルベルチーヌはファッションに詳しい。それは貧しくていい服が買えなかったために、憧れて調べて詳しくなったそうだ。例えばゲルマント夫人のファッションなど、アルベルチーヌが夢描いていた世界のようだ。手に入らないからこそ欲求を募らせ、その道に詳しくなる例として挙げられている。主人公においてそれは、病弱で旅行できなかったから余計に、旅先に詳しくなった。

このあたり、事情は違うにせよコレクターの世界ではよくある典型だと思う。コレクター商品は希少価値が高いと値段が上がる。それだけでなく、手に入れることが難しいほどに物欲は高まり、予算のリミッターが外れてとんでもない額でも出す人が出てくる。中には金持ちだから金銭感覚がおかしい人もいるけれど、特別裕福でもないのに大金をはたいたり、手に入れるルートを執念で調べ上げたりする。

ハードルが高いほど燃える、みたいなことに近い。以前にアトロクの絶版文庫特集で、10年探していた本が手に入ったときの嬉しさを語っていた。見つけたときもそうだけど、探している過程が楽しいのだそうだ。自分もなかなか手に入らない本やレコードが手に入ったときが、それを読んだり聞いたりしているときよりも嬉しいことがある。

主人公はアルベルチーヌもアンドレも本心がわからず、印象が固定しないことに翻弄されている。出会うたびに違う顔をしていると書かれており、読んでいる自分としても人物像が定まらない。主人公の友人ブロックや、サン=ルー、ゲルマント夫人などは一貫している。アルベルチーヌやアンドレは、次に出てきたとき全然別の人のように振る舞う。

主人公は自分のそばで寝ているアルベルチーヌを見て、彼女を所有している気持ちになり、満足する。シャルリュス氏もモレルを所有する喜びを感じていた。この、人を人とも思わない欲求と満足感は、この時代には顕著だったのだろうか。現代ではかなり非道だと思うんだけど、残念ながら現代にもそういう人が多々見受けられる。人間を物のように所有することに喜びを感じる人。そのことについて、本書につらつら書かれているけれど、僕には全然わからない。

プルーストを読む生活

478ページまで。前回と前々回の間が空きすぎて、「失われた時を求めて」を読み進めた分と「プルーストを読む生活」がもはや対応していない。さらに「プルーストを読む生活」があまりにも「失われた時を求めて」の話をしないため、いったいどこまで読んでいるのかわからない。「プルーストを読む生活」は最初から「失われた時を求めて」の読書日記でもなかったけれど、同時読みがますます意味をなさなくなってきている。

著者はほとんど外で本を読むそうだ。「失われた時を求めて」は通勤電車で読み、それ以外の本もフヅクエで読んだりしている。僕はほとんど自宅か、「本とかの店」で読んでおり、外で読むということはあまりない。だから本を持ち歩くということを滅多にしない。著者は文庫より単行本の本をよく読んでいる気がするから、持ち歩くのはさぞ難儀するんじゃないか。この「プルーストを読む生活」なんて、とてもじゃないけど持ち歩きたくない。

外で読む、持ち歩くというのなら、僕はやはりKindleが便利だと思う。軽く薄いデバイスの中に、何冊も持ち運べる。次の巻にまたぎそうなとき、二冊持ち歩く必要もない。紙じゃないからちょっとやそっとでは傷まない。外で読むならKindleだな。電車通勤の際にKindleで読んでいたこともあったような。ただ僕は会社の近くに住んでいたため、通勤時間は短かった。長期の海外旅行には断然Kindleが便利です。僕は3年ぐらい海外をウロウロしていた時期があって、そんなことやる人はあまりいないから参考にならないか。

著者は「庭とエスキース」を読んでいる。僕も去年読んだ。弁造さんという北海道で自給自足するおじいさんを、15年に渡り取材した写真家の書いた本。「弁造さんと僕」といった感じの内容。僕はこの本をツイッターかなんかでたまたま知って買った。同じ著者の「動物たちの家」が出るタイミングだったと思う。「動物たちの家」も買ったけれど、まだ読めていない。いったいいつ読むんだ。そういう本(いったいいつ読むんだ本)がたくさんある。

著者は奨学金を早期返済できたようだ。僕も奨学金を借りており、著者より年上だけどまだ返し終わっていない。うちは満額借りており、それで大学の学費を支払っていた。僕はノータッチで、借りるのも返すのも全部親がやっている。大学までの学費は親が払うけど、奨学金は使わせてもらう、そういう取り決めだった。

うちは決して裕福ではないが、平成の当時はまだ「親が大学まで行かせるのは当たり前」という空気があった。少なくとも僕はそう思っていたし、周りもそうだった(学力不足は除く)。今の時代はどうなのか知らない。だから奨学金は借りても、うちは親が全額返している。恵まれていると言われたらそうかもしれない。けれどそもそも奨学金を借りないと進学できない時点で、見る人から見れば恵まれない家庭だ。見る人の立場次第だから、どちらとも言えないだろう。

著者は選挙と政治について熱く語っている。多数決がどうだとか。この本が書かれた当時は安倍政権だった。僕は選挙や政治に関心がなく、結婚するまで10年ぐらい選挙に行かなかった。それがいいことだとも悪いことだとも思っていない。ただ投票がどうだとか、政治参加がどうだってことは、他人がとやかく言うことではないと思う。行きたい人が勝手に行けばいい。僕が今投票に行くようになったのは、単純に時間があるから。投票しなかった頃は、住所を転々としていたし、都度住民票を移すこともせず、休みの日も仕事をしていたり、期日前投票をする意欲もなかった。

投票に責任が持てなかった、というのもある。考え無しの投票や、主義主張のない無責任な投票なら、やらないほうがましと思っている。かといってそのためにわざわざ時間を割いて、候補者を選んで投票所に足を運ぶこともめんどうでやらなかった。よく知りもしない人に無責任な一票入れるぐらいだったら、放棄したほうがいい。そんなふうに思っている人も、意外と多いんじゃないだろうか。

著者はブックマーケットで本を買いまくっている。これらはいったいいつ読まれるんだろう?僕と違って「プルーストを読む生活」の著者は、買った本をちゃんと読んでいる。だからこれは、僕自身に対する問いかけだ。買った本は、いったいいつ読むのか?「空飛び猫たち」というポッドキャストを聞いていて、話し手のダイチさんは積読が100冊以上あると教えてくれた。「むしろ少ない方」とまで言っていた。これはいいことを聞いた。自分に言い訳できる。「いったいいつ読むんだ本は100冊たまっても少ない方」僕はまだ50もない。

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