序章
1.
彼女と初めて出逢ったとき。
それは、彼女が祝福され生まれ出でた日。
赤子は望まれ、そして愛されるべき存在。
小さな手足に触れることを許され、産着に包まれた身を両の腕に抱いたとき。
守るべき存在となり、主となった。
それはまだ、五つのオレには理解できなかった。
出来なくて良かった。
そのときに望まれていたのは僕としての存在ではなく、ただの子守で遊び相手だったから。
けれどオレは腕の中で小さく息づく命に、その尊さと儚さと力強さを確かに感じた。
「十斗、これからこの子をよろしく頼みますね」
ひとしきり泣いて目を閉じた赤子の顔を飽くことなく見ていたオレに、赤子の母親である椛様が声をかけてくださった。
いつもなら楚々とした温かい声も、今は産後で疲労の色が濃く滲ませていて、それでも赤子を生んだばかりの椛様の言葉にオレはただ、素直に返事を返していた。
「はい、任せてください!」
偽りもなく、ただただ舞い上がっていた言葉。
初めて抱いた赤子の命の重みを感じ、不思議と気分が高揚していた。
「あら、お前も言うようになったのね」
産婆とともに赤子を取り上げる手伝いをしていた母上の笑みを含んだ言葉には褒められた気はしなくて、一瞬のうちにオレはむくれて小さく唇を尖らせた。
「頼もしい限りではないの。十斗、そう不貞腐れることもないわ」
椛様が額に汗で張り付いた黒い前髪もそのままに、優しく助け舟を出してくださった。
その言葉にオレは嬉しかったのか、それとも照れてしまったのか……そのときは笑って抱いた赤子の頬に頬ずりをしていた。
「これ十斗。そんなにしては起きてしまいますよ」
くすくすと笑う母上の言葉に、オレは初めて気がついて寄せた頬を放した。
「それに、そろそろ暇せねばなりませんよ。大役成されたばかりですので、奥方様もお休みなさらねば」
「はい」
名残惜しさを十分に込めた返事を返したとき、ひらりと目の前に舞ったものを見つけそれを追った。
外には薄紅色の桜が無数に咲き誇り、柔らかく吹きぬけた風と共に、小さな主の生誕を祝福しているように、桜の小さな花びらが開かれた部屋の中にも幾つも入ってきた。
思わず零れた感嘆の声が聞こえたのか、泣き疲れて眠っていたはずの小さな瞳が不思議そうに開かれた。
「あっ! 椛様っ。この子、きれいな菫色の瞳してる」
抱きかかえていた赤子の顔を椛様へ見せようとした途端に、大きな声で泣かれてしまい、オレ自身も驚いたりどうしたら良いのか分からずにつられて泣きそうになった。
今思えば、情けないな。
助け舟のように椛様の細い腕が差し出され、その腕の中へ赤子を落とさないようとだけ考えてて必死に、それでいて気を付けて受け渡した。
母親の椛様が優しく赤子を抱きしめると、ぴたりと泣き止み、オレがほうっと一息を吐くと周りにいた産婆と侍女たちが笑っていた。
「后守と云えど、やはり生まれたばかりの姫様には手を焼かれるようですね」
「う、うぅ……だって……」
「そう苛めてはなりませんよ、まだ十斗も五つになったばかりの子。これからの長い目で見てやるが私たち大人の勤めでしょう」
椛様の救いの言葉にまた笑い、産婆の声掛けによりオレ達は部屋から退出した。
今も色鮮やかに懐かしい――――
2.
菫の瞳、神宿りの姫。
闇に迷いても導を失わず。
また、闇に迷いし人の導とならんことを。
願わくば人々に慕われる導となり、寄り添う彼の人の導とならんことを――
名もまだ無かった赤子に、願いを込められてその名が贈られた。
「灯里様、椛様、おはようございます!」
母上より誰より先にオレは、開かれた襖を飛び出して部屋の中へ入ってしまった。
もちろん、後で密やかに母上に窘められたのは言うまでもない。
「十斗、琴世。毎朝早くからご苦労様です」
「そんな滅相もございません。わたくし共も奥方様と姫様のお顔を拝見したく、早く着すぎてしまいました」
その日の朝もいつもと同じように準備をしていた母上を急かしたのは当然のようにオレだったが、母上はそのことには触れずただ日課の準備に取り掛かりはじめた。
椛様はお体が少々、弱い方。
灯里様を御懐妊なされたとき、母子ともにその命すら危ぶまれた。
それから出産に至るまでの十月は、オレたち后守の主家である御剣家の侍女衆総出という具合に、御方様である椛様の体調と共に体力をつけて頂く為に手段を講じた。
その時のオレは、椛様に付き添う母上に付いて回る犬のようにしながら、道に咲く草花や虫を追いかけて遊んでた気がする。
それ故に、こうして無事に母子ともにご存命された事実は薬師である母上をはじめ侍女たち皆が手放しで喜び、灯里様のご生誕を祝う宴は確かに盛大に行われた。
その席には、残念だったがオレ達は出席することは出来なかった。
母上曰く「お役目にも色々あるのよ」と言われてしまい、あの時はただ、「灯里様と椛様は宴で疲れてらっしゃらないな」とか、「父上だけ行っててずるい」とか散々、母上に文句を言って過ごしてた気がする。
それでも――
「十斗。この子に庭の花を見せてやってくれないかしら? 昨日、侍女が池で杜若の花を見たと教えてくれたのよ。よいかしら?」
「はい! 母上、椛様行って参ります。灯里様、いきましょうね」
当時は、この朝の散歩が唯一のオレの仕事だった。
後年に与えられる仕事に比べれば、何と平和な事か……
でも、妹が出来たように思えてとても嬉しくて、誇らしかった事は間違いない。
オレと同じく灯里様のもう一人の付き添いの侍女が、先ほど椛様が仰られていたかえ殿と言う。
ほがらかで他の侍女と比べてしまえば、とてものんびりとした彼女だが、この密やかな時間は三人だけの時間で、それ故に誰にも言えない秘密事があった。
椛様の在居でもある離れから、ほんの少しだけ離れた場所に池がある。
敷地内の池は皇家の城の池とは比べ物にならないほど小さいが、それでも池に備えられた鹿威しの小気味のよい音が庭の葉桜の間を駆け抜けていた。
まだ首も据わっていない赤子を抱くのは怖かったが、それでもかえ殿に教えてもらいながら、小さな灯里を抱くのを代わってもらった。
乳飲み子特有の暖かさと、甘い香りが腕に抱いた場所から立ち上る。
灯里様が外の散歩に出られるようになったのは、本当につい最近。
石組みの花壇から外れた池の中に、白く咲く杜若の花を見つけ灯里様に見えるようにとゆっくりと、腕の位置を変えた。
「灯里、見える。あれが杜若だよ。普通は濃い紫色なんだけど白いのもあるんだ。あれだと染まらないけど、凄くきれいな紫色の染料になるんだって」
本当に他愛ない秘密。
主を呼び捨てにしているなど、無作法者がすると分かっていたはずなのに。
灯里様の小さな菫色の瞳はオレの教える花には向かず、無垢に笑いオレを見上げていた。
それが本当に嬉しそうに見えて、オレもかえ殿も灯里様の顔を覗き込んではつられて笑った。
わずか四半刻程度(約三十分)の散歩が、オレに与えられていた唯一の仕事だったのに、ふっと柔らかな朝の日差しが僅かに翳りを見せ、風が僅かに強く空を吹いていた。
湿り気のある風に併せて黒雲の塊が千切れて流れてきていた。
「まだ降らないと思うけど……ほんとに雨が降る前に帰ろうか? 灯里が風邪を引いたら椛様が心配しちゃうし」
「それが良いかも知れませんね。干した物はどうしましょう」
「取り込むしかないってば。ねぇ灯里」
つんつんと頬に触れば、嬉しいのか楽しいのか、灯里は目を細めて満面の笑みを向けてくれた。
穏やかな刻は瞬く間に過ぎていく。それでもずっと続くと信じていた。
3.
灯里様が生まれてから半年以上過ぎたころ、灯里様が一人であちらこちらへ、はいはい出来るようになった時の椛様の凄く嬉しそうな表情は今でも憶えている。
椛様と母上と並んで、はいはいする灯里様へ声を掛けるとやっぱり椛様の元へと突進して行く灯里様に何度かオレは唇を尖らせた。
それでも、幼心に無垢な赤子と同じように笑う椛様の表情を見つけて、こっそりと母上に報告すると同じように母上も笑っていた。
母上と椛様は、オレが生まれる前。それこそ椛様がお屋敷に入られた時からの付き合いだと聞いた。
普段は家にもいない父上が、自慢気に話してくれたから覚えてる。
まあ、それでもオレが寝て起きたころには父上の姿は無かったのも、いつもの事だった。
冷たい秋雨の降る月ともなれば、冬の目前としてその寒さを一層に増し始める時期であり、お体の弱い椛様には堪える季節。
夏の強い日差しに焼けていたオレの肌も少しずつ元に戻り始めてきていた。
暑中には避暑として大楚川の上流側にある御剣家の別宅に行き、大楚川へ毎日のように出向いては母上に指導をもらいながら魚を取ったり野草をとったりなど、夏はどうにも語りつくせぬ日々を送った。
本当は下流にある笹川町の花火を見たいともねだったりしたが、本気で困った母上の顔を見て“いつの日か”と約束を取り付けて諦めたりもした。
「十斗。今日は生憎の天気……灯里と共に部屋で過ごしていなさい。後で、皆に茶を立ててもよいわね」
日々健やかな成長を遂げる灯里様とは対照的に、椛様の顔色は少しずつ白さを増していた。
オレはその僅かな変化に気が付くこともなく、冷たい雨が僅かに吹きこむ縁側へと出て行こうとしていた赤子を慌しく抱きとめていた。
「灯里様、外は寒いですよ。めっ、ですよ」
そう怒っても理解などしてくれるわけもなく、じたばたと外へ出ようとする灯里様を無理やり抱きかかえると、案の定、大泣きされてしまった。
「これ十斗。何事も力任せにしてはダメですよ」
「だって、母上……」
窘める母上に、何も思い浮かばなかったオレは大泣きする灯里様を抱きかかえたまま、思いきりしょげかえっていた。
他にいい案があるなら早く教えてもらいたい。とは言えずにただ不貞腐れていた。
「もう、姫様と同じような顔をしないで、そういう時は興味の対象を移せば良いのよ。ほら、こんな風に」
少しだけ悪戯を思いついたような笑顔を浮かべた母は、薬包の余っていた紙を持って灯里様に近づいてきた。
「姫様ぁ。ほら、くしゃくしゃ、くしゃくしゃって」
そう言って両手で紙を音を立てて丸め始めると、泣いていたのがピタリと止んで不思議そうに母の手を見ていた。
「ほらね。色んなものを見て触れるのが子供。きっと前から雨が気になってたのでしょう」
「琴世、十斗。ありがとう……灯里、こちらへおいでなさい」
そっと広げた椛様の両手にオレは灯里様を抱き渡そうとしたら、小さな手がオレの袖をぎゅっと掴んでいた。
「あらあら、この子ったら」
椛様が微笑みながら灯里様の濡れた目元を綿で優しく拭うと、くすぐったそうに笑い声を上げた灯里様につられて皆、笑っていた。
それからも月日は穏やかに流れた。
雪が積り、晴れた日にはオレも灯里様も重ね着を幾重にもして、体を冷やさぬようにとしっかりと灯里様を抱いて薄氷の張った池を見て周り、ちょっとした悪戯心で、片手で雪玉を作った。
灯里様に渡せば、初めて触れた雪の冷たさに驚いて泣かれた。
大晦日の日には侍女たち皆で集まり、年越し参りと一緒に来られなかった椛様と灯里様お二人の健康祈願をし、迎えた新年の初日の出は椛様が在居する離れで、椛様と灯里様……皆で見た。
七草の頃にはオレは師匠と紹介された人と共に裏山に入り、七草を屋敷にいる皆の分を集め、お二人も食していただいた。
歳が巡り春。
桜が咲き、風に舞い踊り散り葉桜へと変わる頃にはまた盛大に灯里様の生誕祝いが開かれた。
夏、例年ならば椛様は侍女と母上を連れて避暑地へ赴かれるはずだった。しかし、今年は生憎の冷夏ともなりお二方とも風邪を召され叶わなかった。
同時にオレは椛様の離れへの出入りが禁じられた。
半人前にも満たないが男児として椛様へのお目通りも今までと同じようには行かなくなった。
それでも、その刻までのオレの唯一の仕事。灯里様の散歩だけは変わらず共に任せてもらえていた。
母上や侍女かえ殿を介していつもの四半刻程度の散歩。
最後の日だけ、椛様のご好意という形の願いで離れの座敷で、灯里様を傍らに見守りながら、椛様自らが立ててくださったお茶を頂く事が出来た。
夏至を過ぎたオレの誕生日が最後。
后守の掟に従い、過日に師匠と紹介された人と共に北の修練地へと赴く事になった。
御剣を守るが后守。
己の命を賭して御剣を守る。
このときはまだ盲目に、ひたすら励むだけで良かった。
この作品は「小説家になろう」で投稿していた同タイトルの改変版となります。
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有料記事部分は御礼の御言葉となっております。
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