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霜月分家へ1


1.

 先日、大和の問いに答えたばかりの初雪は、このところの急激な冷え込みもあって例年よりもずっと早くに訪れた。
 二日ばかり降り続いた雪は、三寸(約九センチ)を超えて積もっている。
 夜明け前特有の霧と薄い雲がまだ空に残っている中で、朝稽古の支度をして道場に急いで向かった。
 痛いほどに冷える空気に、寝起きの体はまだ慣れておらず、身震いも治まらなかったが道場の戸を一枚挟んで聞こえた空気を割く音を耳が捉えた瞬間、ぐっと息を止めて背筋を伸ばす。
「おはようございますっ」
 戸を開き、止めていた息を吐くのと同時にはっきりと声に出す。
「十斗か。お前も日に増して早く来るな」
 振るっていた木刀を止め、お館様から静かに告げられた言葉にオレは大きく頭を下げた。
 道場では既にお館様と師匠である紀代隆様の二人が稽古を始められていた。
 オレたちが屋敷に入る以前からお館様は夜明け前から鍛錬を積まれている。それをオレが知ったのは、実はつい最近だった。
 たまたま、早く目が覚めて寝坊するくらいならという理由で、普段よりずっと早くに道場に赴いたときに既にお館様と師匠の二人が稽古していたのを見付けたという具合だった。
「寝不足での稽古は身につかぬぞ」
「ご心配痛み入ります。しかしながら、昨夜は四つ鐘刻よつがねどき(午後九時頃)には床に就かせて頂きました」
 お館様からの苦言……というより心配の込められた言葉に寝不足はないと応じれば、お館様はそれ以上の言葉を向ける事無く素振りを再開し始めた。
 ずっと何年も欠かさずに行っているだろうお館様の素振りはとてもゆっくりとしているが、綺麗に同じ軌跡を描いている。
「十斗。刻限までにしっかりと体を温めてこい」
「はい!」
 叱責する声音の師匠の声に見惚れていたのだと気付かされて、慌てて返事をし道場の隅で体を解し始める。
 寝起きすぐにも軽く体は伸ばしているが、稽古前の準備と柔軟はじっくり、みっちりとしておく。
 と言うのは建前半分で、残りは興味本位じぶんのためだ。
 后守うちの名を持つ護身術道場はあるがオレがそこに通える訳でも無いし、誰かの稽古を横から見る事が出来ると言うのがどうにも貴重な気がして、こうして早く道場の片隅に陣取ってるわけだ。
 百を超える素振りを終えた二人が、無言のままで木刀から竹刀に持ち替えて互いに距離を取り向き合う。
 礼を交わし、構えを突き付けあい一呼吸ほどの間を開けたかと思えば師匠が先手を取りに行く。
 オレとの稽古ではまだまだ、分かり易い隙を作る師匠に打たせて貰っているのだと思い知る。
 真っ直ぐに小手を打ちに行く師匠の刀先を、お館様は竹刀を小さく振り上げるだけで反らしてしまう。
「破ッ」
 お館様から低く鋭く放たれた竹刀と声が師匠の頭上を斬り抜けていく。
 実戦形式に似通っているが、あくまでこれは型稽古。
 師匠がお館様から一本取ることは無いと分かっていても、続けられる数々の打ち込みを見ていると、もしやと思わず身を乗り出したくなる。
 しかし、十数本の打ち込みが終わった処でお二人とも始めと同じように距離を取り礼を交わしてしまった。
「師匠。外を走って参ります」
 型稽古の終わりに合わせて告げれば、師匠は軽く頷くだけに終わった。
 オレとの稽古では師匠の呼吸が乱れる様なことは無いのに、たった十数本の打ち込みで、呼気を整えるように肩が大きく揺れている。
「十斗」
「はいっ」
 表に出ようとしたところでお館様に呼び止められた。
「後で使いを頼む」
「承知致しました」
 一瞬見学を許されるかと期待したが何てことはない、お館様からのいつもの申付けに少しだけ肩を落としてしまった。
 一度だけで良いから、お館様の修練を最後まで見たいものだと思いながら、今日も屋敷の長塀に沿って緩急合わせて何度か走り込む。
 それから程なくして明六つ(午前五時)の鐘が鳴り響き、オレの稽古の刻限となった。

2.

 朝稽古の後、大和を起こして朝の役目を終えた後に師匠からお館様の元へ伺うように言われた。
 朝に申付けられた使いは、やはりいつもの通りと言えばいつもの通りでお館様からの書状を鷹舎へと届け、反対にお館様宛に届けられる書状を持ち帰るだけ。普段は父上の悪筆ばかりが目に付くけど、今回は他家からの書状も何通か混じっていた。
 それらの書状全てを師匠へ預けたところでオレの使いは終わり、再び大和の元へと戻った。
 日に幾度か、大和は必ず灯里様と共に過ごす時間を設ける。
 今は灯里様の午睡前の僅かな空白の時間。
 そのひと時の間、灯里様は雪の積もった庭に降りて雪だるまを作るのに夢中になっていて、縁側の大和はそれを眺めていた。
「お二人ともそろそろ暖の取れる部屋から、雪見障子越しでご覧になっていても宜しいのでは?」
 柔らかくも風邪をひくと窘めた口調で挟んだのは師匠だった。
 オレは師匠の後ろに付き、二人に淹れた茶と菓子を載せた盆を持っていた。
 灯里様も大和も分厚いと言っても良い半纏を纏って居るが、それなりに長い時間をこうして庭で遊んでいる。
「じゅっとみてー」
「紀代隆も見て。雪兎」
「いっしょにつくったの」
 雪だるまに埋もれていた灯里様が慎重に縁側の上に朱塗りの盆を乗せ、自らは縁をよじ登るように座って自慢気に見せてくれた。
 綺麗に形どられた雪の兎といびつで大きな雪の兎が並んで座いて、どちらが作成者か一目瞭然のそれを見て、師匠も笑った。
「お上手に作られましたね。十斗」
「はい」
 師匠に呼ばれて冷たい廊下に膝を突き、二人の側に湯気を立てる茶を差し出して置いた。
 大和は灯里様が茶器に手を伸ばそうとしたのを制して、己の両の手で小さな手を包み込んだ。
 その仕草に灯里様は首をかしげて不思議そうに大和を見つめてから、オレたちに菫色の瞳を向けていた。
「冷たい手でいきなり、熱いものを持つと危ないからね」
 優しい声色だったが、大和がむっと一瞬オレに向けた目は険が籠っていた。
 大和は灯里様をとても大切にしている。それは誰が見ても明らかで、優しい温和な兄だけど、それが周囲全てに対しても同じとは限らない。
「十斗、気をつけてよ」
「申し訳ありません」
 変わらず優しい声色。けれど棘は十二分に含まれているが、こういう時ばかりは理不尽を覚えるのも仕方ないと思って欲しい。
「紀代隆。あとで十斗を借りても良い? 少し出掛けるからさ」
「承知いたしました。十斗、戻り次第……いや、夜になったらまた私のところに来なさい。では私はこちらで失礼いたします」
「はい」
 オレの返事を聞き、師匠は二人に向かい一礼をし、先にこの場を後にした。
「にいさま、おそといくの?」
「少しね」
 大和は羨ましそうに自分を見上げた灯里様の黒髪を撫でていた。
 オレたち三人以外は誰もいない。蒼穹を泳ぐ鳥の鳴声を聞いて大和が灯里様の視線を外へ移すと、素早く手刀がオレの頭に落ちた。
「いって……悪かったって言っただろ」
「この前も同じ事をした。灯里の肌、弱いんだから気をつけてよ」
 聞こえないように小さく文句を言ったオレに、ふうっと溜息を吐き大和はその柳眉を潜めてから、茶に口を付けた。
「それで、このあとは何処まで?」
「ん、霜月しもつきの分家まで。なんでも神名木かみなぎの当主が皇家謁見に来らしくて」
「あの神名木か?」
「そう。なにをしに来るのかは分からないけど、法術の統括者が来るならば分家のご当主にも相談したいってさ」
 神名木……この御剣家が東を守る武の家柄なら、対極の西を守る術の家。
 蘇叉すさは小さな島国だがそれでも異国大陸と同様に災いをもたらす魔の存在がある。その魔――あやかしの存在から国を統治する皇家を守るのが御剣と神名木の役割。もちろん、差異は多々あるのだろうけど。
 だからと言って両家の仲が良いと言う話は、今まで聞いたことがないが、オレも聞きかじりだけど父上たちにとって、霜月家分家の前御当主様は相談役にも近しい人という。
「だけど、そういう役目ならお前が行く必要はないだろ」
「分家ご当主様へあいさつしたいって僕からね。義父上ちちうえだってもちろん最初はダメと許してはくれなかったけど、十斗も連れてくって行ったら何とか了承もらえたし、行くならその手紙も頼むって頼まれた」
 どうしてそうなったんだ? とは聞けず、オレが言えるのは「そういう事なら」と同道する事を了承するだけだった。
「にいさま、じゅっと。灯里もおそといくっ」
 今までずっと黙って大和の分まで茶菓子を食べていたはずの灯里様に、オレたちは些か困ったように振り返った。
 母君のもみじ様がお亡くなりになられてから、灯里様は御剣家の敷地から出たことがなく、町に下りるのも未だ侍女付きでもない。
 オレが時折、使いで屋敷の外に出ているのを知っているせいか、輝かせた菫の瞳には期待が込められていた。
「灯里はお留守番だよ。午睡の後にまた勉強があるし、灯里がいなくなったら義父上が悲しむよ」
「やだぁ! 灯里もおそとであそびたいっ。べんきょうやっ!」
 ぷくっと頬を膨らませ大和に甘えていた灯里様だったが、大和の意見が変わらないと分かると今度はオレへと今にも泣きそうな菫色の瞳を向けてきた。
「ええっと……灯里様、申し訳ありません」
「うぅ、ふたりともきらいっ! いじわるいうっ」
 まるで嫌な物を突きつけられた小動物のように両目をギュッと閉じた灯里様は、そのまま立ち上がると廊下をパタパタと走り始めた。
「灯里、走ると危ないよ!」
 大和の制止の声に一度振り返ろうとした灯里様だったが、勢いが付いた足で着物の裾を思い切り踏んづけて、顔から転倒してしまった。
 いつもならここで大泣きされると覚悟していたが、灯里様はゆっくり立ち上がって駆け寄ろうとしていたオレたちより早く、再び走っていってしまった。
「十斗、準備だけ頼むよ。僕は灯里の様子見てくる」
「しかし今の転び方は……医師を呼ぶかの判断もさせてくれ」
 転んだときの音は厚手の羽織が功を奏していたのか、派手な音はなかったが万が一を考えて、大和に言うと彼も少し考えて頷いた。

3.

 灯里様は廊下を突き当たった部屋の影で小さく蹲って、声を抑えて泣いていた。
 大和がそっと近づき灯里様の前に座った。
「灯里」
 兄が声を掛けれどもすっかり機嫌を損ねてしまった灯里様は、体ごとぷいっとそっぽを向いて小さく嗚咽を抑えていた。
「怪我してない? 痛いところもない?」
 いつもなら直ぐに柔らかな黒髪に手を置き撫でていたりするのだが、今回はそれもなく灯里様と同じように小さく両膝を抱えるように座って覗き込んでいた。
「怪我がなければいいんだ。灯里は僕にとって一番大切だからね。今日は一緒には行けないけれど、灯里ももう少し大きくなったら町に出られるようになるよ。それまで待ってて欲しいし、その時には一緒に灯里の好きなところに行こうよ」
「……ほん、とに?」
 俯いていたはずの顔が少し持ち上がり、涙に濡れたままの瞳で大和を見る。
 それに大和は小さく頷いて優しく笑った。
「約束する。その代わり灯里もひとつ約束して」
「ん。やくそくなぁに……」
 洟を啜り、じっと上目遣いに菫色の瞳を兄に向ける。
「ちゃんと良い子で待ってて。夕餉の前には帰ってこられるだろうから、ご飯食べたその後で一緒に遊ぼう。昨日、灯里が先に寝ちゃったから読めなかった絵本、一緒に見たいな」
「……にいさままたよんでくれうの?」
 機嫌が直ってきたように少しばかり様子を窺う灯里様に、大和がいつものように黒髪に手を置き優しくその髪を撫でながら「うん」と頷く。
 ゆっくりと少し場所を変えて撫でる仕草のなかで、ちらりと視線が上げられた。
「たんこぶ出来てるけど大丈夫そうだね」
「そうだな」
 幾度か大和の手が灯里様の黒髪を撫で繰り返すうちに、次第に泣きつかれた灯里様がうつらと舟を漕ぎ出していた。
 大和が危なげなく灯里様を抱き上げたのを見て、一足先にオレは侍女を呼んで、灯里様が部屋に戻る旨と冷やすものを合わせて頼んだ。
 灯里様をお部屋に送り届けた後、オレ達は幾分か遅れた時間を取り戻すように揃って急ぎ足で屋敷を出立した。

 ひらりと降る雪は深々と喧騒を緩やかに溶かして、凍てついた地面を踏みしめる音が良く響いていた。


この作品は「小説家になろう」で投稿していた同タイトルの改変版となります。
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