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【音楽×珈琲 鑑賞録】5月4日~フリッツ・クライスラー 「愛の悲しみ」

音楽観を鍛える鑑賞録。
5月4日のテーマは、【周辺】

とりあげる作品は、
フリッツ・クライスラー /
「愛の悲しみ」

です。

フリッツ・クライスラー
Fritz Kreisler
1875年2月2日 - 1962年1月29日
オーストリア出身の世界的ヴァイオリニスト、作曲家
フランスを経てアメリカ国籍となった。

「愛の悲しみ」(Liebesleid)は、1905年に出版された、ヴァイオリンとピアノのための楽曲で、ラフマニノフがピアノ独奏用にも編曲しています。
「愛の喜び」(Liebesfreud) と1対になる曲で、さらに「美しきロスマリン」(Schön Rosmarin) を加え、3部作「ウィーン古典舞曲集」(Alt-Wiener Tanzweisen) とされています。

この楽曲といえば、「四月は君の嘘」を思い浮かべてしまいます。
あの作品が言いたいことのすべてを物語っていますが、あえて自分なりに腹落ちするべく、この記事で言語化しておきたいと思います。

キーワードは、
「悲しみに慣れておく」と、
「抱きしめるように弾く」という部分です。

昨日記事にした、リストの「愛の夢」でも思い浮かんだことは、「愛」を名詞にしたときに感じる現実との「距離の遠さ」です。
「愛」は、現実と理想の距離と同様、かけ離れていることに「悲しみ」を覚えるものです。
「喜び」もあります。
しかしながら、見つめてしまうのは、「悲しみ」の方です。
なぜなら、後悔は先に立たないというように、過ぎてしまったものは取り返しがつきません。
同じ時間がないという事実は、思考する人間にとって純然な罰を刹那ごとに施行されていることと同義です。

これは「四月は君の嘘」で語られていた、
"なぜ「愛の喜び」と「愛の悲しみ」が両方あるのに、「愛の悲しみ」ばかり弾くの?"
という問いの応えに、
「悲しみに慣れておくため」
とした理由に通じるものがあります。

この「悲観」に慣れておくとはどういうことか。
それが次のキーワード、「抱きしめるように弾く」に繋がってきます。

時間が在ると仮定した場合、
「いまここ」に在るわたしたちは、全員が等しく最先端にいます。
それはつまり、万物の生の歴史が過去に有ったという事実が裏づけられます。
「在りたかった生の意向」が有り、それはもうどうにもならないという悲しみと、いまの生がもつ、どうにでもなるかもしれないという希望が、連綿と受け継がれています。

「愛の悲しみ」というテーマにした作品ならば、
そういった背景を示せなければ「嘘」になってしまいます。

情報の目が粗く、膨大な量と時間を必要とする、「言葉」というツールでこのロジックを説明しても、陳腐になりがちです。
でも、音楽であればどうでしょうか?
傾聴者が想いを汲み取れれば、音は無限の解釈ができるものです。

クライスラーとラフマニノフが創り出した「器」から、たくさんの創作物が出てきました。
それらはすべて、「愛」ではありません。
ですが、愛へ向かう過程、「愛する」という行為です。
「抱きしめるように弾く」ことを体現すること、
それを汲み取り体感することこそ、「愛する」ということです。

わたしたちは過去にあった背景を学び深め、
愛とは何かと求道している行為が、現在進行形の「愛している」であり、
その指向が未来につながっていきます。

いまここ、なぜわたしたちは在るのか。
そういったことを考えさせ、教えてくれる過去のすべてに感謝したいですね。

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