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【音楽×珈琲 鑑賞録】12月5日~オットー・ニコライ オペラ『ウィンザーの陽気な女房たち』

音楽観を鍛える鑑賞録。
エンディングまであと【27日】
12月5日のテーマは、【逸話】

とりあげる作品は、
オットー・ニコライ /
オペラ『ウィンザーの陽気な女房たち』

です。

おカール・オットー・エーレンフリート・ニコライ
Carl Otto Ehrenfried Nicolai
1810年6月9日 – 1849年5月11日
ドイツの作曲家・指揮者

『ウィンザーの陽気な女房たち』(Die lustigen Weiber von Windsor)は、1849年3月9日にベルリン王立歌劇場(現在のベルリン国立歌劇場)にて初演された3幕オペラ。
ウィリアム・シェイクスピアが著した同名の戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』(The Merry Wives of Windsor )に基づいて、サロモン・ヘルマン・フォン・モーゼンタールがドイツ語台本を手がけました。

オットー・ニコライの特筆するポイントはやはり「ウィーン・フィルハーモニー」を創設した点にあるでしょう。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の成り立ちは、帝国王立宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)のオーケストラとして、1842年3月28日にレドゥーテンザールにて行われた「大コンサート」がウィーン・フィルの誕生となるそうで、その指揮者が当時、帝国王立宮廷歌劇場の楽長で作曲家でもあったオットー・ニコライでした。

この大コンサート以前は、アンサンブルを伴う音楽コンサートを開く際に各パートの腕利きを呼び集めていたそうで、特定の楽団員で演奏するという決まりがなかったわけです。
コンサートにおける演奏の安定性を保つためにも、楽団を組織するのは遅かれ早かれ訪れるものだったとは思いますが、そのタイミングに対峙したオットー・ニコライがどんな運命を辿ったかは興味深いものでした。

オットー・ニコライは、幼少のころから音楽の神童。
16歳で親元を離れ、ベルリン・ジングアカデミーの学生として教会音楽を学んでいます。
23歳には交響曲第1番を初演するなど、ドイツで成功。
その後、駐ローマ・プロイセン大使館付き礼拝オルガニスト、1840年代にウィーンに活動の拠点を移し、ケルントナートーア劇場の楽長に就任したところで、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の前身「フィルハーモニ・アカデミー」を組織しています。

控えめにみても順風満帆で歴史を刻みまくっていた人ですが、その後ベルリンの王立歌劇場(現ベルリン国立歌劇場)・宮廷礼拝堂楽長就任の2日前、1849年5月11日、脳梗塞で倒れ、38歳の若さで亡くなってしまいました。

こうした流れからもフェリックス・メンデルスゾーンとかぶる点があり、当時の音楽家の薄命さに無情さを感じてしまいます。

今回とりあげているオペラ『ウィンザーの陽気な女房たち』は、オットー・ニコライの死の2ヶ月前が初演であり、これから期待の音楽家の早すぎる突然の死は当時のヨーロッパの人々からしても脅威だったのではないでしょうか。

熱量と迫真さがこの時代の作品群に帯びているのは、ほんとうに明日はどうなるか分からないという事実と対峙するからこそ生まれ出ているのではないかと思いますが、現在においても実際、次の瞬間どうなるかは不明です。
どの時代においても、命を賭して成し遂げたいものがあるならば、事実と向き合い、熱量と迫真さをもって今現在にできる最善の行動に努めたいものですね。

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