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「障がい」という言葉が作るものは何か?

僕は左耳が生まれつき聞こえませんが、

障がい者手帳はおりません。


発達障害をはじめとした、

社会不適合の生きづらさを

ものすごく感じやすいですが、

これについて理解を示してくれた人には

残念なことに

これまで出会ったことはありません。


もちろん、

僕の思考が深すぎるために

一般的な人のレベルからしたら

理解しづらいもののように

思われるのかもしれませんが、

別に難しいことを考えているわけではなく、

ごくごく素直な子供心とでも言いましょうか?

純粋な眼差しで物事を見た時に見えてくる

小さな疑問をただただ考えているに過ぎないのです。


普段僕がどんなことを考えているか?については
アメブロをご覧いただけたらと思います。

さて、今回、なぜnoteでお話ししていくか?というと

普段僕が話している内容とは別の、

僕個人の意見として言いたいことがあるから、です。

もしよかったら僕と一緒に

今回話す内容について考えていただき、

あなたの意見を僕に教えていただけたら

嬉しい限りです。



今回お話ししていくのは

「障がい」についての僕の意見です。



「障がい」とは誰のためのものか?


この問いについて考えたことはあるでしょうか?


おそらく一般的には

「障がい」という言葉は

障害者を保護するためのものである、

そう思われている方も多いのではないか?

そう僕は思います。

実際に、

年々

障害者への理解や支援というものも

次第に増えつつある、

という話もあるので、

確かに「障がい」という言葉があることによって

障害者の方々が保護されていることは

起きている、とみなすこともできるかと思います。


ですが・・・・・


僕個人の意見を結論からお伝えさせていただくと、


「障がい」という言葉は

本来不要です。



「障がい」という言葉の

対義語としてあげられるのが

「健常」です。

この「障がい」「健常」という区別が

そもそもおかしい、と僕は思うんです。


というのもですね・・・

障害者からしたら自分のことが

障がいとは思ってないわけです。

だのに、

手帳やらなんやらで、

健常者と区別、

もっと言えば差別されるんです。


それはなぜか?

健常者からしたらごく普通のことができない。

ただただこれだけの理由です。


ではごく普通のこととは何でしょうか?


ここに健常者たちの悪意があると、僕は思っています。


「普通」という差別

普通。

一般。

常識。

モラル。

社会人として。

当たり前。

などなど、

普通に似た言葉は山のようにありますが、

これらの言葉はどうやって作られているのか?

あなたは考えたことがありますか?


普通という言葉が作られる背景にあるものは何か?


それは

圧倒的な数の暴力です。


要は


10人中6〜9が

同じ意見だった場合、

6〜9人の意見を

「普通」と呼ぶということです。

僕はこれが小さい頃から不思議でならないのです。


だってこの場合、

1〜4の残りの人の意見は

どこに行ってしまうのでしょうか?


普通、と言った時、

少数派の意見は消えて無くなることがほとんどです。


僕はこれがとても悲しいし、ムカつくのです。


仮にマンツーマンだとしても、

「力」というものの数値化によって

力のあるものの意見が

「普通」としてみなされることもあります。



小学校1年生の時、

僕がやってもいないピンポンダッシュの犯人にされたのは

当時の担任の先生の「力」でした。

その時僕の意見など一言も採用されなかったし、

先生は聞こうともしなかったのですから。


僕の話はさておき、

普通という言葉が

数の暴力として存在するのだとすると、


先ほどの「健常」「障がい」の話はどうなるのか?


健常者が障がい者を支配する社会


これです。

「健常」があるからこその「障がい」。

つまりこれは

「健常」者が

「障がい」者を

支配するための言葉なのです。


障がい者、

つまり

普通じゃない者

という考え方の順番を辿ると


そこには必ず

数の暴力によって作られた

「普通」という

本来はあるはずのない概念が存在します。

これによって

普通じゃない者たちを

支配できてしまうのです。

ただ一言

「普通じゃない」というだけで。


こんな恐ろしいことってあるでしょうか?



でも、これが人の本性でもあります。



人類の歴史を紐解いていけばわかることですが

人類はずっと

自分達と同じではないものを

迫害し差別し虐殺するという歴史を

いまだに繰り返しているのです。



奴隷制をはじめ

エタ、ヒニン

アパルトヘイト

黒人差別

ユダヤ人迫害

宗教観の違いからくる内紛

あげたらキリがありません。


これらの争い差別迫害を作り出しているのは

「普通」と自称する人々です。


自分たちと違うから。


ただこれだけの理由で。


そして、これが厄介なのですが、

誰かの役に立てばいいという極端な自己正当化


障がい者支援は言ってしまえば、

健常者たちの自己満です。

「私たちは障がい者を支援してやってるんだぞ、

どうだ素晴らしい仕事だろう?」

と実際には思ってはいないかもしれませんが、

そもそも障がい者支援など不要なのです。

だって、そもそも「健常」も「障がい」も本来ないのですから。


でも、それでも、「障がい」という言葉を作るのは、誰のためなのか?

突き詰めていくと、健常者たちの自己満です。

健常も障がいも関係なく、

個人個人の違いを認め合う世の中にさえなれば、

普通だの普通じゃないだの

言い合う必要などないと

人並みの良心を持つ人ならわかるはずです。


これをやらないのはなぜか?


世の中というものを作っている普通の人たちが

自分たちの普通を壊されたくないからです。


普通であることを盾に自分を守っているのです。


ですが、

その普通が作り出すのは

普通じゃないものを差別し、

「障がい」と位置付けることで

健常者の支配に置くという社会です。


しかも

能力が低いだの

何かと健常者は障がい者に理由をつけるのです。


こんな言葉の暴力が許されていいのでしょうか?


能力など人それぞれ異なるはずです。


そのことを無視して、

普通じゃないからという

その一言で片付けて、

目の前の人のことを理解しないのは誰でしょうか?


間違いなく

健常者たちのはずです。


こうやって考えて行った時、

一体僕たちはどう生きていったらいいのでしょう?


最後に・・・


僕個人の意見からすれば、

普通だの障がいだの

そういった数の暴力に都合の良い判断は

やめるべきだと思うのです。


「これはこうだ」

「あれはああいうものだ」

そういった知識や情報でさえ

「普通」という言葉で片付けられる今の時代です。


そんな知識や情報になんの意味があるのでしょうか?


僕たちはもっと

一人一人と

さまざまな違いについて

話し合うべきなのです。


それを無視して

データや学問、

統計学や分類から作られた

「普通」に

目の前の人も自分も

当てはめて会話することに

一体なんの意味があるというのでしょうか?


人として

お互いの意見の違いを対話していく心が

今世の中には必要なのではないか?

そう僕は思うのです。

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