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自分の外側を見ること


しゅーです。

最近の気付きについて言語化してみます。

ある一冊の本と動画がある種の気づきをくれたのでまとめます。

自分を責め続けていた


鬱になる前からずっと自分を責めていました。

理想の自分に至れない自分
やりたいことをやらせてもらえない自分
もっと頑張りたいのに頑張れない自分

そういった「自分が定めた自分のハードル」を超えられていない自分をずっと責めていました。


自分を責めるとは自分を憎むこと

加藤諦三さんを読み、 自分を責めることはすなわち自分を憎むことであると知りました。

自分を憎むとはどういうことか。

本来は他者や外部に向かうべき怒りや憎しみが発散できず、自身に向いてしまったケースがそれに当たります。

つまり、やりきれない負の感情の矛先が自分に向いてしまい、自分自身を憎み、結果責めてしまう。

僕はこれまで自分を憎んでいたんですね。

本の一節を借ります。

人間というのは悲しいもので、ある程度強くならなければ、自分の弱さすら自覚できない。自分を憎むことで自分の感情を処理していくことを学んでしまった者は、大人になってもそれを続ける。

自分を憎んでしまった者は、あの不幸な完全主義者になっていく。完全でなければ愛されないという、あの間違った感じ方に囚われていく。そしてまた自分が完全であるならば、みんなに愛されるという間違った思い込みの虜にもなっていく。

自身を憎むのはある種麻薬的なもので「自分が悪いのであり、自分が不完全で至らないから不幸なのだ」と泥沼にハマっていく。

そして記されているように、自分が完全であるならば愛されると思いこんでしまう。

自分で自分を憎んでしまった者は、自分は自分を犠牲にして相手に尽くさなければ相手から愛されないと感じてしまう。...自分で自分を憎んでいるのだから、普通にしていれば憎まれると思うのが当たり前であろう。

相手に対して対して役に立つときのみ、自分は必要とされるという悲しい感じ方に囚われる。

私は人の役に立つ瞬間がとても好きである。

一方で、人の役に立たなければ自分は無能であり生きる価値がないと自分自身の値付けを行っていた。

これはとても辛いことである。辛いことだった。

成果や人の役に立つ実感というものはなかなか目には見えづらいし日常的, 恒常的に得られるものではない。

つまり「日常の殆どが人の役に立てていない期間」と感じ得る時間となる。

これにより日々の殆どで自身に対して無能であると暗示をかけることになる。

これはとてつもない負荷とストレスを自身で生み出すこととなる。

そして無能な自分は誰からも愛されることなく相手にされない、などと一方的で偏狭的な思想に自らを陥れていく。

他者は不完全なままの自分を愛してくれる

自分を軽蔑してしまった者は、自分が欠点のある自分を受け入れていないのであるから、他人が、自分には弱点があるけれど、それにも関わらず愛してくれるということが信じられなくて当然かもしれない。
人間は自分の気持ちを犠牲になどしなくても人に好かれる。...他人に嫌われることが怖くて、自分の気持を殺しても得ることはなにもない。失うことがあるだけである。

自身を犠牲にすること、つまり自分の心を殺すことで人の役に立とうとする。

自分を責め憎んでいるならば、人のために自分を殺した過去について思い当たるだろう。

でもそれは文字通り自分を殺し続けているので他ならぬ自身の心を歪めることになる。

振り返ってみると、これまで自身を好んで付き合ってくれた人たちは自分を歪めずともありのまま振る舞って自分を好いてくれた人が多い。

環境が変わっても時を経ても良い付き合いで居続けてくれる人たちは「そのままの自分」を愛してくれている人達だと感じる。

つまり自分を犠牲にせずとも自分を好いてくれる人はたくさんいる。

自分を憎むことは向上心ではない

過去の経験から言って自分は類を見ない怠惰であり放っておけば腐ってしまうような駄目な人間だと思い込んでいた。

自分を責め立て、自分を追い込むことで「追い詰められることで向上する」方法のみを取ってきた。

それが向上心だと思いこんできた。

一方で、その方法は自身の心をすり減らし、ついには自分を鬱に追いやってしまった。

僕が向上心だと思いこんでいたものは「自身が作り上げた完璧主義」に過ぎなかった。

自分を憎むことの一つの側面と、向上心とを間違ってはいけない。それは決して向上心などと言われる性質のものではない。

完全でない自分、成功しない自分もすばらしいのであって、人はそのような自分を愛してくれるのである。

自分を追い立て、不完全な自分を責めることは向上心ではない。

それはただただ自分の心を追い詰め本心を隅に追いやる自身への不貞行為である。

今思えば、向上心とは「不完全な自分を現状として認め、今の自分が出来うる最大限の努力を毎日継続すること」にほかならない。

ただやるべきことを決めやるべきことを楽しみながら取り組むことにほかならない。

つまり、向上心は現状の出来ていない自分を認めない限りは持ちうることが出来ないはずであり、自分を責める以上は向上心を持つことなど叶わない。

自分は魅力的な人間でないという事実と思い込み

これらの事柄に加え、私は「つまらない人間だから他者が興味を持ってくれない」という呪いも自分自身にかけていた。

これに関しては一部は正解であり、一部は不正解だと今は思う。

問題の解決は、意識が自分から離れることである。自分にしか関心がない状態が終わらない限り、どんなに成功しても解決にはならない。

外界に関心が向きさえすれば解決する。自分が完全であるかどうかということに関心が集中しているところに問題がある。

話がつまらない人の特徴は色々あるだろうが、「自分の話ばかりする人」は代表的なつまらない人ではないだろうか?

鬱や不安が強い人は意識が自分の内面世界に寄りがちである。

https://www.youtube.com/watch?v=Zqvy02zk3KU

こちらの動画で離されていたことでとても納得した一節があった。

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7つの習慣に登場するこちらの図。以下のように説明される

影響の輪: 自身が影響を与え変更可能な範囲

関心の輪: 自身が関心を持つことができ、変更不可能な範囲

人によっては影響の輪、つまり自身が影響を与えられる範囲にのみ関心を持ち生きている人がいる、という話だった。

(動画の中ではそういう人は影響の輪の中に強力にコミットできるから、興味が持てる分野をとことん突き詰めろ、という要旨であった)

自身の内的世界に意識が向いている人は限りなく影響の輪の内部に関心を強く持っている人であると仮定できる。

しかし、多くの人が関心を持っていることは関心の輪にあるであろう世界のトピックであり、「私自身の話題」ではない。

つまり、自分と世界が関心を持つ最重要課題は多くの場合でズレている。

このズレが「私をつまらなくさせる」理由である。

ストレートに言ってしまうと「誰も私のことになど興味がない」のである。

人気がある人や人格に興味が持って貰える人は殆どの場合において

「その人が発信する話題が関心の輪において有用である」

もしくは

「対面することでとても楽しかったり気持ちよくなれる(つまり相手の影響の輪の中に入れる)」

人である。

魅力的な人とはそういった人なのだ。

だから「自分の内面世界にばかり目を向けて外界に興味を持たない人」は限りなくつまらないし、魅力的でなくなっていく。

これは紛れもない事実である。

まとめ

ここまで書いてきたが、では今後どうしていくかについて方針をまとめたい。

自分を責めることを辞める。

これには技術が必要である。

立ち返って考えた時に本当に私は私を憎みたいのだろうか。

地球上でほぼ唯一と言って良いはずの自分の味方であるはずの「私」という人格が私を否定している。

そんな人生辛くないだろうか。

ともかくにも自分を許してあげる必要がある。

現状でも十分に頑張れていると許してあげる。

自分が掲げる理想に近づくには時間がかかる。

成長するのに必要な時間を見込んで多めに見てあげる。

もしかすると掲げた理想には近づけず、他者から認められず、諦めざるを得なくなる場合もある。

そんなこともあるさ、いつか違った形でたどり着くかもしれない、と許してあげる。

ある種、子に接するような寛容な気持ちで自身を見守る必要がある。


不完全なままの自分を愛す

人に愛されたいのであればおそらく自分が最初に自分を愛して上げるべきだろう。

放っておいて勝手に壊れるモノを誰が大切に扱うのだろうか。

私が自分を大切にしなければ、大切にしてくれる人は自ずから離れていく。

そして私が不完全なままでも人は私を好んでくれる。

それはこれまでもこれからも変わらない事実だろう。

好いてくれる人ばかりではないだろうし、嫌ってくる人もいるだろう。

ただしそれは私を嫌ったのではなく、彼らが自身を嫌っている要素を私の中に投影して嫌っているのだろう、そう信じていこう。


自分は魅力的な人間でないという事実を受け入れて外界に興味を持つ

私が私にしか関心を持たないならば、本当に魅力のない人間だろう。

共通の話題もなく、話す話題はすべて私自身に関することである。

他者に関心を持たないのだから、他者も私には関心を持たないだろう。

自分は魅力的な人間でないという事実を受け入れる必要がある。

そして、私は魅力的に変わることが出来ると信じる必要がある。


魅力的な人とはなにか。

外界に興味を持ち人に有用な情報を提供できるか、人を気持ちよくさせられる人である。

つまり外界(関心の輪)に関心を持ち、それらのエキスパートになることである。

外界とは世界のトピックであり、共通の趣味であり、他者に関心を寄せることにほかならない。

たまらなく苦痛かもしれない、関心が持てないかもしれない。

関心を持てるところから始めれば良い。

外界は自分の力ではそれほど大きく変えられない。

人から好かれるかはわからない。

人によく思われるかは結果である。それを目的にしてはいけない。

結果はわからないが、魅力的な人になるためには外界に興味を持ち精通する他無い。

もしくは加藤諦三さんのように内的世界に客観性を持たせ、言語化する他無い。

どちらの道を選ぶにしろ大変だろうが、外部に興味を持つほうが関わる人が多くなり楽しみは増えるだろう。

私は外界に関心を持ち精通していく未来を選んでいきたい。


散文になってしまった。以上。


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