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アルジェリア

(51番)  2006年   2月

アルジェリアへ行ってきました。
この旅行会社では二つのコースがありましたが、タッシリ・ナジェールにある有名な岩絵である「白い巨人」を見るためには歩かなければならず、脚に自信のない身には無理と断念。もう一つの車で移動できるコースにしたので、そこには行きません。

参加者は男性3名、女性5名の計8名でした。
ある方は砂漠での不便なテント生活に対応するためにレーシックの手術をして頭も丸坊主にしてきたとか。気合の入れ方が違います。
今回は旅の途中で病気になってしまい、本当に辛かったです。

今回のルート

1日目 2月17日
✈ 12:50 発 成田 エール・フランス
  17:25 着 パリ

ホテルへ

2日目 2月18日
✈ 11:45 発 パリ アルジェリア航空
  14:00 着 アルジェ(アルジェリアの首都)

国の説明
アルジェリアは北アフリカに位置しており、北部は地中海に面し、南部は
砂漠地帯で国土の85%を占める。国土面積はアフリカでは最大で、
日本の6倍もある。
1962年にフランスから独立をした。宗教はイスラム教。
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後記:2013年1月に「アルジェリア人質事件」が起きて日本人10名を含む8か国で37名の死亡が確認されています。
ある日、旅行が終わって成田に到着し、出口に向かっていました。
丁度、その関係者の方達が帰国されたタイミングのようでした。
出口に出た途端にササササ~ッと多数の報道陣に囲まれてマイクを向けられましたが、「関係ありません」と逃げる羽目に・・・
いや~、報道陣は必死で怖いくらいの形相でした。
確かに大事件でしたから。
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到着後、アルジェの市内観光へ

カスバの旧市街
カスバとは「城塞」と言う意味で世界遺産に登録されている。
1529年にオスマン帝国の総督がアルジェに赴任した時から、海賊が捕えてきた捕虜の身代金で巨万の富を築く一方、豪華な邸宅やモスクを建築して町を美しく飾った。
そういう時代が1830年のフランス軍事侵攻まで続いたが、フランスは都市改造のためにカスバをあらかた壊してしまった。
1980年代に入って、その復興計画が承認されたが、なかなか実現の運びには至っていない。
家々の屋上には洗濯物やTVのアンテナが立っている。
それで、どこにでもあるアラブ世界の街並みといった感じでさしてインパクトはないと感じた。

カスバ市内

ケチャーワ・モスク
1209年に建造されたモスクだが、1839年に大聖堂に転用するという計画があった。
独立後には元のモスクに戻り、当時の色彩豊かな壁のモザイクや大理石のミンバル(説教壇)などが蘇った。
他にも素晴らしいモスクがあって、皆ケチャーワ・モスクと同じような運命を辿っている。
フランスはパリと同じような街並みにしようとしたらしいが、ちょっと酷すぎやしないかな。

3日目 2月19日
✈ 10:00 発 アルジェ アルジェリア航空
  11:50 着 ジャネット(タッシリ・ナジェール探訪の拠点)

機内から見た感想
真下は赤茶色のサハラ砂漠が広がっている。昔はこんな所をキャラバン隊が行き来したのか・・・
恐ろしく乾燥しているように見える。モーグルのコブのような物が連なっている場所があって多分岩の上に砂が積もったのだろう。
イメージとしては砂漠と言えば、平べったい土地が広がっていると思っていたので。

タッシリ・ナジェール
アルジェリア南東部のサハラ砂漠の最奥部に広がる山脈地帯で、
長さ800kmに渡り、標高1,000mを超える峰々が連なる。
20世紀初頭の発見以来、ここに多くの先史時代の岩絵が発見され、
研究されてきた。
岩絵は熱帯砂漠の紀元前6,000年から紀元頃まで数千年間描き続けられてきて、15,000以上が残されている。
気候や人々の生活の変化の証となる貴重な文化で世界遺産に登録されている。

着後、四駆に分乗し、タッシリ・ナジェール国立公園に入り、
エル・ベルジュへ移動。

砂漠にも岩山が結構ある

ただ只管走り、着後、テント設営。

食事の様子

夜には「星ってこんなにあるんだ」と感激するくらいの素晴らしい夜空でキラキラと輝いていた。オリオン、カシオペア、北斗七星などが非常に大きく見えて更に感動!
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後記:世界中、あちこちで星空を見ていますが、サハラ砂漠で見たのが一番素晴らしかったです。
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4日目 2月20日
リビア国境に近いティン・メルズーガの砂丘地帯へ。

岩絵は次のように変化をしていく。
1 象の時代(B.C.6,000)→象、カバ、サイ、キリン、バイソンなどの図
2 狩猟民の時代(B.C.3,000)→狩猟者たちが獲物に接近する図
3 牛の時代(B.C.2,000)→放牧の牛や牛を飼う人の図
4 馬の時代(B.C.1,500)→2輪の戦車を引く馬の図
5 ラクダの時代(B.C.1,000)→ヒトコブラクダの図に加えて2種の文字も現れた

キリンと人間

この辺りはB.C.2,000年頃に乾燥化が始まった。それに伴い、登場する動物も変化してきているのが分かる。
かつてはサバンナだったことを示す狩猟や放牧の様子を描いた岩壁画や岩刻画がいろいろある。

このような岩山もいたるところにある

テント泊

今夜は多くの流れ星が見えた。

5日目 2月21日
奇岩と砂丘が広がる景色の中を走り、インジャレンヘ。

熱心にお祈りをするドライバーさん

本日も多くの岩絵を見ることができた。
岩絵は絵の具(もちろん、自然界にある材料)のようなもので描かれているものや彫ってあるものがあって圧倒的に前者が多い。

テント泊

テント泊

今回のメンバーの中でユニークな人がいらしたので紹介したいと思う。
Sさんという御年83歳の女性で、ちょっとした有名人らしい。
今回の海外旅行は186回目で、全世界に行ったそう。
ご本人も全世界に行った人を他に5人知っているとか。この全世界という意味の「国と地域の数」は不明だが。
海外旅行は55歳から始めて28年目。
杖を突いておられて、海外旅行中に大きな事故にあわれたのだとか。
その事故というのが、デザートサファリでドライバーとガイドと3人で乗っていた時の事です。二人は死亡し、Sさんも一生歩けないと言われていたにも関わらずに何とか杖を頼りに歩けるまで回復したのだそう。

驚くのはパンにバターを長さの半分ほど塗って食べること。内臓関係はどこも悪くないらしい。そして、テント泊にも拘わらず、夕食時には正装をして来られるのだ。
スーツケースはどこへ行っても困らないように必需品が常に入っているので、正装にもなれるわけ。
一つの旅行が終わって、成田に着いたらすぐに次の旅行へ出発したりすることもあるので、いつもそのスーツケースで飛び回っている。
は~、物凄いタフ!
年に18回海外へ出かけたことがあるそう。
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後記:かく言う自分も今となってはその位のペースで行っていましたが。
国盗りを目指すと大体そのようなペースになるようです。
成田からスーツケースを託送してもらった際、次の旅行が二日後という事が結構あって、ドライバーさんに「ちょっと待ってて」と頼み、予め用意しておいたスーツケースに洗面用具などを届いたスーツケースから移し替えて「はい、お待たせしました」と頼むこともしばしば。
ドライバーさんも顔なじみで慣れたものでした。
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見学する際、丘の上にある洞窟のような場所へ上ったりすることがあって、ドライバーさん達はSさんの事が心配で手を引いてあげようとするが一切人の手は借りようとしない。自分の力で行けるところまで行くようにされていた。

テント泊

6日目 2月22日
引き続き、岩壁画や岩刻画を見学しながら、ジャネットに近いエルグ・アドメールの砂丘へ。

ティネロッソではライオンをハンティングしている岩絵があった。

ハンティングの様子

テント泊
夜、たくさんの流れ星と共に人工衛星を見た。
スバルと火星の位置も分かった。

え、これ食べるの?

7日目 2月23日
予定ではジャネットからワルグラへ飛行機で向かうはずだったが、砂嵐で飛行機が飛ばずにジャネットで一泊。
朝1時くらいに風の音で目が覚めた。勢いはますます強くなりおちおち寝ていられなくなった。テントごと飛ばされそうになり、自分が重しになって必死に押さえた。何度か浮いた時はもうだめだと思ったが。
テントの中にいても寒いし、これがいつまで続くのだろうと一抹の不安に駆られたが、およそ30分ほどするとと何事もなかったかのように静まった。
これが所謂「ハムシン」という砂嵐だ。
兎に角、恐ろしい出来事だった。国盗りのメンバーに聞くと高い確率でこれを経験している。

8日目 2月24日
朝起きたら、胃の辺りが痛む。以前にも感じたことのある強烈な痛さで嫌な予感がしてきた。

✈ 16:55 発 ジャネット アルジェリア航空
  19:25 着 ワルグラ(交通の要衝)

バスにて10世紀にムザブ族が築いたサハラ砂漠のオアシス都市ガルアイアへ。

23時ごろ到着後、ホテルへ

9日目 2月25日
今朝も胃が痛かったが、胃腸薬を飲むと午後には治まった。

朝食のレストランでは中国人らしき団体が食事をしていた。観光ではなく労働者のようだった。こんな辺鄙なところで会うなんて驚いたが、中国人らしき労働者はアフリカで時々見かける。

終日、涸(か)れ谷にムザブ族の5つの町が並ぶムザブの谷を観光

ムザブの谷
イスラム教の教えを厳格に守るイバード派の人々が住む。11世紀にこの町に住み始めて以来、当時と同じ生活様式、建築様式を守って暮らしている。
高度な地下灌漑システムを開発し、オアシスを造り上げた。
1982年に世界遺産に登録された。
全身白づくめで片目だけを出している女性、独特のズボンを穿く男性などが行きかい、不思議な雰囲気を醸し出している。

ガルダイア
要塞都市で一番大きい街。モスクのミナレットを中心にパルテルカラーの家々が一定の秩序のもとに街を形成している。この都市計画の素晴らしさに大建築家のル・コルビュジェも脱帽したという。また、イメージがわかなくなるとインスピレーションを得るために、何度もここへ足を運んだそうだ。

ガルダイア

メリカ
一番新しい街。
女王シディ・アイサのお墓がある。この女王はかつてムザブ地方を統治していた。

エル・アテフ
イバード派の聖人であったシディ・イブラヒムのお墓がある。

ベニ・イスゲン
ここは聖都であるために、ガイドと同伴でなければ入ることはできない。
しかも建造物以外の写真は禁止、更に酒、たばこは不可などの禁止項目がある。もちろん、女性を撮るのはどこへ行っても厳禁。

ホテルへ

10日目 2月26日
又しても朝、胃が痛む。

ワルグラを経由して「千のドームの街」と呼ばれるオアシスの街であるエル・ウッドへ。
太陽の熱を蓄えないように屋根の形がドーム状になっている。

着後、市内観光
チュニジアとの国境に近い街で旧市街を散策。自分はバスの中で待機。

ビスクラを経由してバトナへ。

着後、保存状態の良さから「アフリカのポンペイ」と呼ばれる「ティムガッド遺跡」の見学

ティムガッドへ向かう途中に雨が降り出し、しまいには雪になった。
風もとっても冷たかった。

ティムガッドの遺跡
ローマの都市遺跡は、街中をモザイクで飾り、大理石をふんだんに使って劇場や浴場など公共の建物を建て、更にその上に装飾を重ねるなど、贅の限りを尽くした遺跡。

ティムガッドの遺跡

ホテルへ

11日目 2月27日
今朝も胃がモーレツに痛くてもう我慢の限界。

コンスタンティーヌへ向かい、着いた時に病院へ連れて行ってほしいと頼むとガイドのモハメッドが今はだめだと言った。
バスの最後部にマットレスを横に敷いて寝かせてもらった。甘い液状の薬を飲まされたが、一向に効く様子がない。
次のセティーフへ着いたら、やっと病院へ連れて行ってもらった。
実のところ、それまでは病院らしき所がなかったようだ。😅

まず、どの辺が痛いのか聞かれて、すぐにエコー検査をしてもらったら、「胆石があるじゃないか」と言われた。脂っこい食事で石が動いたのであろうと。
「すぐに手術をしましょう」と言われてビックリしたのなんのって・・・😯
丁寧にお断りをして、「日本に帰ったら受けます」と返事をした。
すると「では、痛み止めのお薬を出しておきましょう」と。

過去にもこの「もんどりうつ痛み」で明け方に救急車で近くの国立○○病院へ運ばれたことがあり、そこで告げられた病名が「急性の胃炎」で「ガスターテン」を処方されて飲んだ。すると胃がすっきりとしたのだ。
なので、ずっと胃が痛いと思い込んでいたが、胆石だなんて想像だにしなかった。
日本の医者はやぶ以下だ。😡🤬
アルジェリアのお医者さんは一発で病名を当てたのだから。
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後記:現在はセカンドオピニオンを聞くことも可能ですが、当時はそこまで考えが及びませんでした。
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それから1時間ほど点滴を受けてベッドに横たわっていた。
すると入院患者達が、入れ代わり立ち代わり、「ニイハオ」と言って私を見に来た。変な東洋人が来たと噂になったのであろう。
これは海外旅行あるあるだが、東洋人を見ると皆「ニイハオ」と声をかけられるので黙っている。最初は「違うよ」と訂正していたが、最近は面倒になってきた。

血圧を測るグレーの巻物のような物を持ってきて、「Legを出して」と言うので「エッ?この国は血圧を脚で測るの???」と思ってズボンの裾をまくり上げようとしたら、あわてて「ノー、ノー」と言う。フランス語圏なので「Arm」と言うべきところを間違ったらしい。
皆で大笑いをしてしまった。😄

数日間、ほとんど食事をしていなくて、スープを用意してもらい、スプーンでごくごく飲んだ。
豆のスープのようだったが、まあ、美味しかったこと。

お医者さんや看護師さんはとっても親切だった。
加えて、アルジェリアは公立病院ではすべて無料(手術を含む)なのだとか。これは外国人旅行者も例外ではなく、本当に有難かった。
お世話になった病院の方々に感謝を申し上げます。

半日ほど、滞在してガイドさんが迎えに来てくれてホテルへ。

他の皆さんは保存状態の良いジェミラ遺跡へ行かれた。

帰国してすぐに病院へ行き、手術をしてもらった。
どうも末期の状態だったようで10日間も入院をする羽目に。自分でもよく我慢したなあと思う。

12日目 2月28日
今朝は100%までは回復していないが、昨日と比べると嘘のように良くなったので、観光にもついて行けそうだ。

今日はアルジェに戻る。
途中、11世紀に繁栄を誇ったハマド朝の都ベニ・ハマッドの要塞都市遺跡を見学。

ベニ・ハマッド
11世紀に東アルジェリアを支配したハマッド朝の首都であった場所。
標高は1,000m近くあるので、風光明媚。
隊商交易を目的として建設された要塞都市だが、その繁栄も長くは続かずに反対勢力に滅ぼされてしまった。
宮殿やモスクの壁の跡が残っており、唯一綺麗に残っているのは高さ25mのミナレット。

ミナレット

ホテルへ

13日目 3月1日
終日アルジェ郊外の日帰り観光

ティパサ遺跡
地中海を臨む起伏に富んだ海岸沿いにあるティパサはフェニキア語で「市の広場」と呼ばれており、その建設はB.C.7世紀に遡る。
カルタゴ時代からローマ時代にかけての遺構で、公共広場、カピトリウム神殿、浴場、円形闘技場、劇場などが城壁の内側に残っている。

円形闘技場
ティパサ遺跡

シェルシェル国立博物館
全体がローマ時代の展示となっている。
人物像の彫刻、
クレオパトラとアントニウスの娘セレーヌがマウレタニア王家のユバ2世と婚姻した系図、
背中にヒエログリフが彫られた大司祭の像、
ギリシャ神話の三美神や数々のモザイク画は色も綺麗に残っており、小さな博物館ながら見ごたえはあった。

ホテルへ

14日目 3月2日
✈ 07:50 発 アルジェ アルジェリア航空
  10:05 着 パリ

✈ 13:20 発 パリ エールフランス航空

15日目 3月3日
  09:20 着 成田

今回は病気になり、辛かったですが、現地の方々に親切にしていただいたことは本当に嬉しく感謝に堪えません。

写真は旅行会社さんのパンフレットとKさんに送っていただいた物を引用させて頂きました。お礼申し上げます。

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