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開業したらコロナがやってきた③


コロナ、おまえは、なんやねん?と問いかけてみるが、もちろんここではウイルスそのものの話ではない。

ウイルスが引き起こす心理・社会的な影響についてだ。

経済的な影響はもう多く人が「コロナショック」として扱っている。経済的危機は自殺と直結している。失業や経済問題を理由とした自殺を「経済的な死者」と呼ぶが、2002年から2003年の自殺者のピークと失業者のピークはほぼ一致して、その2つは強い相関関係にある。倒産→失業→自殺という連鎖が見られるのだ。また、自殺の動機は「健康問題」が最も多いがその中では「うつ病」であるが、経済的問題や一連のコロナショックの対処への疲弊がその要因となるのは想像に難くない。

昨日、ドイツのヘッセン州のシェーファー財務相が新型コロナウイルスへの対応を苦にして自殺したというニュースがあった。日本でもすでに、中国武漢からの受け入れ業務をしていた内閣官房の男性職員が2月に自殺をしている。ツイッターなどのS N Sでも、コロナショックが原因と思しき自殺を報告し警鐘を鳴らすツイートを見かけるようになっている。厚労省の31日の発表では観光バス業界や宿泊業を中心に30日時点で新型コロナウイルスによる業績悪化で解雇や雇い止めされる人の見込みが1000人を超えると発表した。

私は自殺予防のゲートキーパー講座の研修をすることがあるが、その中で強調するのは「孤立を防ぐ」ことだ。しかし、この「孤立」は「周囲に人がいない」ということではない。(事実、自殺者は単身者に限らない)

個人事業主や経営者は平素でも孤立しやすいかもしれない。

経費を考えると個人のみで事業を回しており、そもそも自身の決断や判断を誰かに相談して決めていくという環境やスタイルにない方も多くいよう。また、自身の事業に精一杯で同業者などの付き合いや仕事以外の人間関係が少ない方もいるだろう。また、最小人数の従業員や親族・家族で事業を回している方も多いだろう。しかし、普段近しく力になってくれているその人たちの雇用や生活が危機に晒された時に、心配をかけまい・不安を与えまいと辛さを抱え込んでしまう方も少なくないはずだ。自身のケアを後回しにして、金策や従業員のケアに奔走するような「善良な経営者」は疲弊して心的にますます孤立していってしまうであろう。

心的に疲労すると人は「心理的視野狭窄」状態に陥ってしまうと言われている。客観的な判断をするエネルギーがなくなってしまい、解決への思考のための情報や支援が目に入らなくなってしまったり、情報をフラットに扱えなくなったりしてしまう。そんなとき人は直感的な「死」という解決を希望のように感じがちである。

その「死」という希望の光の外にも、道や選択肢があることを気づくためには「時間」と「休養」が必要である。それを担保するためには「心理的に孤立しないこと」が重要である。

新型コロナウイルスの集団発生を防ぐために3つの「密」を避けるべしと言われている。3つの「密」とは「密閉空間・密室空間・密接場面」であり、その3つの条件が揃う場所がクラスターの発生リスクが高い。しかし、3つの「密」を避けることは、同時に対人社会的な場面から人々をロックアウトすることでもある。人は多様な人間関係や場所を利用して人々は仕事や趣味や娯楽を通じたリアルな人間関係を分断される。分断された人たちは、自宅や家庭に引き籠らざるを得ない。しかし、自宅や家庭にも「孤立」はある。

3つの「密」から逃れた先の家庭が別の種類の悪しき「密閉空間・密室空間・密接場面」となる人もいよう。「閉じられて外部からのコミュニケーションの風通しの悪い親密な関係」というのは、DVや虐待の発生リスクの高い環境でもある。外出の自粛や休校が続き、家庭自体にストレスが溜まっている家族もあろう。これまで、家族の個々のメンバーが家庭外の3つの「密」があったことで直面化しなかったことが、家庭が「密接場面」になることで露呈してしまうこともあるだろう。この「コロナという危機」というものに対する価値観の違いが、夫婦や家族の不和を呼ぶこともあるかもしれない。(「コロナ不和」と言ってもいいかもしれない)

(まあ些細な話だけれど、仲の良い友人たちとのグループLINEのやりとりで「マスクをつける・つけない」「外出を自粛する・しない」といった基準の違いで少々険悪なやりとりになったことがあった。友人AがBの体調への心配や良識的な振る舞いを期待して外出の自粛を望んでいたがBは構わず外出したことをAが咎めたのだった。ほかの部分の価値観が合うからと言って、公衆衛生の価値観が合うとは限らないのだ。プチ・コロナ不和と言えよう。)

新型コロナ・ウイルスによって二次的にであれ、仕事でも家庭や自宅でも二重・三重にストレスを抱える状態に陥る人は日本中・世界中にいる。

この状況をポジティブに捉えようとしている人もたくさんいる。みんながいつもネガティブではない。(コロナに関係なく花は綺麗だし、紅茶もいい匂い。私も「セックス・エデュケーション」のシーズン2を観ている間はコロナのことなんか忘れていた。)

人の逆境に対するたくましさに勇気づけられる。でも、それが難しい人もきっとたくさんいる。「ポジティブに捉えねばならない」と苦しむ人もいよう。

でもだって無理だ。これだけ血が流れていれば…と腹も立つ。もうどうしようもない、と諦めに似た無力感も感じる。

コロナ、おまえは、なんやねん?

それを今、もし、誰かが独りで考えていたとしたら、それはちょっとヤバい、のかもしれない。


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