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弁慶の泣きぼくろ

「ほら、弁慶の泣きぼくろっていうじゃない」 

 東雲さんがまじめな顔でそういうのを私は昼食に入ったお食事処春日のカウンター席で聞いた。そのとき私は運ばれてきたばかりのお椀の蓋を開けて、味噌汁を口にしたところだったのだが、思わぬ不意打ちを受けてむせてしまい口内に軽いやけどを負った。

 春日の女将さんは炊事場に戻ろうとしてくぐりかけたていた暖簾から振り返り「東雲さん、それ、どういう意味?」と聞いた。

「いや、俺もよくわかんないんだけど、弁慶のような荒々しい男にもそういう色気があるってことじゃないの?」  

 東雲さんは御年九二歳、この地域の長老で生き字引といわれているが、その字引にはこんなふうに少しだけ間違った情報が記載さてれていて、時折ひとをくすりとさせることがある。この町に来たばかりのころ、私は東雲さんがそんな知識を開陳するたびに、どういう意味があるのか真剣に考え込んだものだが、この町に馴染んでくるにしたがって町の人々同様、あまり気にせずに素直に聞けるようになってきていた。  

 軽度のやけどを負いながらもすんでのところで味噌汁を吹き出さずにすんだ私は、おかずのあじのひらきに箸をのばして身から中骨をはずした。しかし中骨をとる最中にも、頭の中では目元にほくろのある山伏姿の弁慶が勧進帳を読み上げ、目の前のあじのひらきは、弁慶が勢いよく開いて読み上げる白紙の巻物さながら、書かれてもいない文字が浮かび上がってきそうな気配がしていた。  

「先生、ところでどうだね? 仕事のほうは」

 東雲さんがこちらを振り返りそう尋ねた。先生というのは私のことだ。しかし実のところ私は教員というわけではないのだが、町の人は皆私を先生と呼んだ。 

  「ええ、これから東雲さんから教わったお宅にお邪魔して見せてもらうことになってます」

「そうかい、そうかい。あの家はこの辺でも古くから続く家柄だからね。きっと色々残ってるはずだよ。俺が子どもの時分にあそこの蔵にはよく忍び込んで遊んでたから、間違いないよ。今じゃ息子が跡を継いでるが、先代とはなはなたれ小僧の頃からの付き合いだ。それにしても、あいつが死んで随分になるけど、俺にはとんとお迎えが来ないねぇ」

 急に話の調子を変えた東雲さんに女将さんが言った。  

「東雲さんはにぎやかだから、天国の仏様が敬遠してるんじゃないかしら」

「いやいや、俺だってでるとこにでたら借りてきたべこだよ」

「借りてきたべこ?」

「乳の出が悪くなる」

 ここまで来るとわざとやっているのではないかと疑いたくなってしまうが、東雲さんは少しもふざけた様子は見せず、いたってまじめな様子で話しているし、それも当たらずといえども……、という程度に状況に即しているので、女将さんも私も妙に納得させられてしまうのだった。

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