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2020年8月26日のこと:須藤圭太


読書感想文 No,1「六の宮の姫君」

来年の8月1日に向けて、読んだ本の読書感想文を書いて行こうと思います。
一応、ゆるいルールを作ってみました。

1.対象の本は文庫、雑誌、図録、漫画、何でも良いものとする。
2.文章としてまとまっていなくても良いものとする。
3.素直に書くものとする。

上記を踏まえ、本を通して私の中に入ってきた情報、湧きあがった感情、ひらめいた考え、それらをひっくるめて好き勝手に綴っていく、そんな感じの内容です。


「六の宮の姫君」 著者 北村 薫

この本は北村薫さんの代表作「円紫さんシリーズ」の4作目。
大学4年生の主人公『私』が卒論のテーマとして選んだ芥川龍之介の著書
「六の宮の姫君」をヒントに芥川の交友関係を探っていく文学推理もの。

もともとは妻が高校生の頃にどハマりして読んでいたもので、家の本棚に置いてあったものをひと月ほど前に読んでみたら、私も完全にハマってしまったという状態。
北村さんの文章はとにかく読みやすく、知的で爽やか。私もこういう文章を書いてみたい。
推理ものなのでネタバレにならないようストーリーには触れず、特に印象に残った一文を2箇所引用してそれについて感想を書こうと思う。

174ページ
《たかが有用でしかない》ものもある。それがよいものであるかどうか、用の有無などで測れる筈がない。突き詰めれば、赤ん坊の微笑みも笹の葉のそよぎも、生きるためには不必要かもしれない。だが、そんなことをいい出せば、何が無用かといい出せば、行き着くところではあらゆるものが朧な影の中に沈んでゆくのではないか。ついには自分すら。

器の制作には”用途”という言葉が必ず付き纏ってくる。有用なものが美しいとは限らないし、無用であっても心惹かれてしまう物がある。
陶芸家は自らの手で作りだしたそれが有用かはたまた無用かという正解の無い問いと向き合いながら物を作り続ける訳だけど、小説家も全く同じようなことを考えているのにはハッとさせられた。ここでは突き詰めればあらゆるものが無用に感じるというニュアンスで書かれているが、言い換えれば世の中の全てが有用であると考えることもできるなと思った。

201ページ
芭蕉は《いひおほせて何かある》といったそうだ。いい尽くしたところで何になる。俳句に限らない。そうなんだよね、と頷くしかない。論文なら、説明し尽くすことが必要だ。しかし例えば小説の価値はそこにはない。
高校の授業で、先生がこんなエピソードを話してくれた。難解をもってなる作家が、自分の戯曲について《一体、何がいいたいのですか》と聞かれた。答えて曰く、
《自分でも分からん》
〜中略〜
仮に説明出来たとしても悪くはないだろう。ただし、それはあくまで
《説明》に過ぎないし、二度目に聞かれた時に同じ答えが返って来るとは限らない、ましてや、観客一人一人にとっての《正解》になるわけがない。

読みながら「ホントそれ」と心底思った一文。今はいろんなシーンで作家が自らの作品について語る事を求められる。そうした時、作家はたいてい作品の説明をしようとしてしまう(自分もそうだ)。しかし本来言葉にできないから、もしくは言葉の代わりとして作品を作っているのであってそれを言葉で説明しようとするのは無理があるように思う。言葉にするのは作品の周縁ぐらいで収めておくべきで、それ以上語る必要はない。と今は思っている。

「円紫さんシリーズ」の中でもマニアック度の高い内容の一冊ではあるが、小説家を題材にしているおかげで自らの制作について考えさせられるシーンや言葉がいくつもあった。数年後、作家としての立ち位置が変わった頃に読み返したらまた感じ方が違ってくるように思う。

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