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みんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう


 「かつてはその人の膝の前に跪(ひざまづ)いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊厳を斥けたいと思うのです。」 -『こころ』夏目漱石

 自分には、かつてその人柄を尊敬し忠誠を誓った仕事上のリーダーがある。しかしある時その人物は、とある関係者のミスを、より地位の低い自分にかぶせ、手間と時間を節約しようとした。
 そのリーダーのために労力を惜しまず貢献してきた自分は、彼の無慈悲な仕打ちに憤慨した。忠誠心の強かったぶんだけ、深い憎悪が湧きおこった。

 以来、自分はそのリーダーに非協力的となり、さらには彼を利するような働きを敢えて避けるようになった。そうして自分の入れ替わった目でその人物を観察していくと、彼の言動には軽蔑すべき浅薄さや不誠実さが多く見い出された。
 自分はその人物を、人として見下すようになった。このような人間に一時でも忠誠を誓ったことが慚愧の念に堪えなかった。その念は敵愾心となって、ときに露骨な反抗の態度を相手に示した。

 しかしこのような出来事は、そのリーダーとの間に限ったことではなかった。場を変え、形を変え、同様の事例が幾度となくあった。この出来事よりもっと過酷な、“深い悲しみ”を自分の胸に刻み込んだ事件もあった。いま思えば、若き日の自分がまったく未熟で無防備で、野蛮な人生の上級者に上手く利用されたに過ぎない。

 こんな経験を繰り返すと、青臭かった自分もようよう目つきが鋭くなり、他者を容易には信用しなくなった。他者を信用しないというより、「信用」というものを信用しなくなった。よしんば信用に値する相手であったにしろ、それは有効期限の付いたナマモノであることを承知しているので、はじめから相手とは一定の距離を保つことを選ぶようになる。
 そうして自分が他者を信用することを許さないと同じだけ、他者が自分を信用することも許さなくなるのだ。もしもいま、純朴で無防備な者が不用意に近づいてきたら、自分は人生の上級者として、彼を利用しない代わりに、彼を自分に近づけないであろう。自分はそれで孤独を代償にして安心を得るのである。

 このような人間不信と処世の不器用さを持つ自分は、真っ当に年齢を重ねた人間であれば理解しがたいであろう、冒頭の倒錯した文句をすんなり飲み込んだのだった。そうして、作中の「先生」の厭世観と諦念に深く共感したのである。
 しかし自分はそれほど特別だろうか。文句の続きにはこうある。

 「……私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。」

 自分はこの“淋しみ”を大切に育てながら暮らしている。




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