「サマー・スティールヘッド」レイモンド・カーヴァー
レイモンド・カーヴァー,村上春樹訳『サマー・スティールヘッド(夏にじます)』(レイモンド・カーヴァー傑作選,中公文庫,2019)
少年のある夏の一日のお話し。少年は仮病を使って学校を休み、川へ釣りに出かける。そこで偶然出会った年下の男の子と協力して、大きなニジマスを収穫した。少年は持っていたナイフで魚を等分に切断し、男の子と釣果を分け合った。
少年がニジマスの上半身を携えて帰宅すると、両親がいつものように喧嘩をしている。少年は努めて明るく両親に割って入り、大きなニジマスを見せびらかす。それを見た両親の反応は……。
最後は、少年が魚籠の中から取り出したニジマスを抱え、それをじっと見つめる場面で物語は閉じられている。
見知らぬ男の子との出会いや自然の中での冒険といった一瞥さわやかな夏の一日を追いながら、背景に家庭環境の陰湿さや思春期特有の鬱屈した内面を描くことで、少年の精神性が立体的に生々しく立ち上がってくる。
冒険を終えて帰って来た子供というのは普通ならば一回り大人になりそうなものだけれど、少年の場合は父親の一言によって、出かける前の状態に引き戻されてしまったように思われた。
絵葉書のようにきれいごとに終始した作品であったなら、ここまでの陰影と余韻は生まれないだろう。泥臭い作品である。
魚を切り分けたとき、少年は連れの男の子とどちらが頭のほうを持って帰るかで揉めた。少年はうまく言いくるめて男の子に尻尾のほうを取らせた。その釣果であり戦果でもあるはずの大きなニジマスの頭をぽつねんと眺める場面で物語は終わるが、その頃、尻尾を持って帰った男の子のほうは、もしかしたら両親の過大な評価を受けて鼻を高くしていたかもしれない。
そんな想像を重ね合わせて読み終えると、抗うことのできない境遇への少年の無常観が伝わってくるようである。結末に少年が見つめた死んだ魚の眼は、少年自身の眼を表しているのではないだろうか。
このような重層的で余白の豊かな作品は、時を経て再読するとまたちがった表情を見せるだろう。『レイモンド・カーヴァー傑作選』にはそんな短編がごろごろ詰まっている。
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