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長編:変貌するミューズ 歌手・松尾和子の研究


加齢を乗り越えて数度の変貌を遂げた素晴らしい歌手


松尾和子は加齢を乗り越えて数度の変貌を遂げた素晴らしい歌手です。


女性というのは加齢によって声が変わりやすいんです。たぶん、筋力の衰えが早いせいだと思いますが。


しかし、流行歌手というのは、十代や二十代の良い声の頃に歌ったヒット曲を、三十代や四十代や五十代になっても、つまり加齢によって声が変わってしまってからも、同じ曲を歌わなければならないわけです。


で、多くの場合、変声にうまく対応できずに、ただ


「懐かしい歌手が当時の曲を歌っている」


という枠に収まっていくわけですが、松尾和子の場合は、年代によって歌い方を変えて対応し、それが非常に的確で、あるレベルを保っていて、見事でした。


というわけで、加齢を乗り越えて数度の変貌を遂げた素晴らしい歌手だと思うわけです。


であるにも関わらず、素晴らしい歌手としての情報よりも、その若い晩年はスキャンダラスな情報の方が多くなって、それによって記憶されています。


高度成長期生まれの我々の世代だとタレントやコメンテーターや女優としての印象が強く、また晩年は子息が逮捕され、その際、指名手配をされた後に逃亡したため、とても話題になり、さらにバブル崩壊で大きな借金を抱え、さらにさらに子息逮捕から1年後に自宅の階段から転落して突如逝去した、死後もまた親族間で揉め事が起きて、スキャンダルの対象として話題になり、記憶されています。


これがですね、不憫なわけです。


芸術家ってのは、表現された芸術によって評価されるべきで、私生活や性格は本質的なものではありません。


つまり、芸術と人格は切り離して考えるべきだ、と。切り離して味わうべきだ、と。


だから莫大な借金を抱えて事故死した、とか、長男が逮捕された上に親族間にもめ事が起きた、とか、そーゆー事ではなく、見事な歌唱を生み出し、多くの民衆に聴かれ、受け入れられ、愛され、魂を揺さぶったことこそが彼女の生涯の栄光であり、我々のような後世の音楽好きは、それを知り、讃えなければならないでしょ。


というわけで、歌手としての松尾和子を讃えます。



生地とお父さんと母方の音楽の血


松尾和子は主に下記のヒット曲があり、昭和30年代中盤に一世を風靡し、「ムード歌謡の女王」と讃えられました。


・グッドナイト

・東京ナイトクラブ

・誰よりも君を愛す

・銀座ブルース

・再会

・お座敷小唄


生年は1935年(昭和10)で、東京の蒲田生まれ、別のソースによっては満州生まれと記されています。で、箱根育ちです。


この「箱根育ち」ってのがなんか不思議で、私のような神奈川県の人間にとっては、箱根というのは遠足で行く場所・避暑地・観光地で、別荘や観光業以外の方が住んでいるとは、あまり思えない場所だからです。


調べてみたところ、お父さんの事情でした。


松尾和子のお父さんは宗次郎という人で、1934年(昭和9)に建築家として松田軍平事務所に入所しました。


松田軍平というのは、1923年(大正12)に米国コーネル大学建築学科を卒業し、三井本館や旧JR第一庁舎等を設計した建築家です。戦後、日本の建築関係の要職を歴任しています。彼の創立した会社は、現在でも「株式会社松田平田設計」として存立しています。


で、宗次郎さん、門司の三井物産支店や新潟の公会堂などを手がけて、入所後3年目の1937年(昭和12)に松田軍平事務所の満州事務所所長として満州に赴任しました。


いま「満州国」というと、日本の植民地で傀儡国家ということからあんまりよくないイメージですが、当時の日本の事業者から見れば「希望の大地」「未来を切り拓いて売上を拡大させる場所」というようなイメージだったでしょうから、そこの事務所の所長として赴任するということは、かなり有能で、社内の期待があったんでしょうね。


松尾和子は1935年(昭和10)に生まれてますので、そんなわけで生地が蒲田だったり満州だったりしたのでしょう。


しかし、宗次郎さんは結核を発症したため帰国せざるを得ず、静養のために最初は鎌倉、その後箱根に移りますが、1944年(昭和19)に亡くなります。


建築家として入所3年目で満州事務所長になっちゃうほど有能で前途有望のお父さんが、当時治療薬がなく不治の病だった結核を患い、昭和19年、つまり敗戦の1年前の大変な時期に亡くなっちゃったわけですから、家族の悲しみと混乱は大変なもんだったでしょう。


さらに箱根で火事にあい、満州から持ってきた毛皮や宝石は全てなくなり、家も焼けてしまったため、大変な苦労をしたそうです。


こりゃ、もう、大変です。


宗次郎さんが亡くなった後に残されたのは、母と姉二人と妹(松尾和子)の4人です。


しかも宗次郎さんは九州出身で、母は北海道出身なので、親戚も近くにはいなかったでしょう。


週刊実話の昭和35年6月30日号に松尾和子のインタビューが掲載されているんですが、それによれば、父方は堅気ばかりだが、母方は芸能関係者が多く、作曲家の宍戸睦郎は母の弟だと記されています。洗足学園大学名誉教授でクラシック系の現代音楽作曲家として活躍された方です。ちょっと驚きました。近親で2人も著名な音楽家を生むというのは、やっぱり音楽の才能を持つ血ってのがあるんですかね。


で、宍戸睦郎の奥さんだった(のちに離婚)のが、日本人として初めてジュネーヴ国際音楽コンクール・ロン=ティボー国際コンクール・ショパン国際ピアノコンクールに入賞して「東洋の奇跡」と讃えられたピアニストの田中希代子です。


昭和45年に膠原病のため演奏活動を引退してしまったので、我々以降の世代にとってはあまり有名ではありませんが、当時はとても著名だった方です。小澤征爾や中村紘子より前に存在した世界的なクラシックの音楽家です。


その田中希代子が、そんなに歌が好きなら、良い先生や良い学校(上野の音楽学校=芸大?上野学園?)に世話してあげよう、と言うのを断ったそうです(゚ロ゚)ま、松尾和子にしてみれば、専門が違うっていうことでしょうし、何より学校が嫌いだったそうです(笑)


さて、父・宗次郎さんの上司というか、社長だった松田軍平が色々と面倒見てくれたようです。「オレが満州に行かせたのが悪かった」と言って。が、日本中が大変な思いをしてる時ですから、松田軍平自身も会社も大変でしょうから、現在のように充分なことは出来なかったでしょう。


というわけで、母と上の姉妹2人、つまり松尾和子以外の家族は箱根富士屋ホテルに働きに出ます。


箱根富士屋ホテルというのは今も存在しており、我々でも泊まることができますが、ここで言う箱根富士屋ホテルは別のものです。


いや、名称も場所も建物も同じなんですが、ここらへんが高度成長期以降に育った人間にはパッと理解できず、面白いですね。


箱根富士屋ホテル


若き松尾和子と母と姉たちが働いていた箱根・宮ノ下にある「富士屋ホテル」は、現在と

は経営母体の異なる、明治中期に建てられた外国人専用ホテルで、敗戦後は米軍に接収され、将校専用のホテルになっていました。


いわゆる「オフリミット(日本人立ち入り禁止)」で、日本人にとっては全く特別な場所でした。


創業者一族の末裔である方が、富士屋ホテルの歴史を丹念に描いた本があり、それを読んで知りました。

「富士屋ホテルは、将校クラスのレストホテル(保養のためのホテル)だった。米軍から贅沢な物資が供給され、(略)マッカーサー夫人や息子のアーサーが富士屋に遊ぶとなれば、分厚いステーキ肉や夫人の好物だったパイナップルなどが、ふんだんにヘリコプターで輸送された。(略)昭和二十年代、日本人の誰もが飢えていた時代、富士屋ホテルは不夜城のごとく光り輝き、毎晩がパーティーのようだった。(略)富士屋ホテルの外と中とでは、飢えたパリの民衆と享楽の限りが尽くされたベルサイユ、それほどの温度差があったに違いない」〜『箱根富士屋ホテル物語』


また、『かながわの温泉』(禅馬 三郎)には以下のように記されています。

「太平洋戦争末期にはドイツ等日本と同名を結んでいた外交大・公使館家族の疎開宿舎となったが、戦後は一転してアメリカ軍将校の専用ホテルとして接収され、昭和27年(1952)、平和条約が発効されるまで、日本人の利用は阻まれていたのである。その頃のホテルの雰囲気を小節にしたのが山口家(引用者註:創業家)と関係のある作家・曾野綾子のデビュー作『遠来の客たち』である。昭和29年(1954)上期の芥川賞候補になった。ホテルで働く少女の目を通して、戦勝国民として日本へ来た米国の将校、下士官の生態や日本人従業員との交流を新鮮に描き出した作品。曾野もここでガイドのアルバイトをしていたことがあり、その体験が随所に生かされている。「不夜城のように大きくひらけた窓という窓に光を満たしたホテルの三層の建物が、妖しい程の鮮やかさと豪華さで、黒い夜の山肌を背景に私達の頭の上にのしかかっています。」戦後の混乱期の中、一般民家や旅館の停電、節電をよそにこのホテルはいつも煌々とまぶしいほどの明かりがともっていた。宿泊客はディナーの後はダンスパーティだった。」〜『かながわの温泉』


その箱根富士屋ホテルに母と姉が働きに出ていたので、松尾和子自身も仕事を得るため面接に行きますが、「高校を出ていないから」という理由で落とされます。


ただ、戦後すぐの混乱期ですから、簡単に仕事はありません。特に、観光地・箱根の話ですからね。


というわけで、仕方なく母達を手伝いながら、箱根富士屋ホテルのちょっとした仕事を手伝うようになります。


そしてこれが、歌手・松尾和子を生む揺り籠になります。


箱根で一流のジャズ


米軍将校クラスのレストホテル(保養のためのホテル)だった箱根富士屋ホテルには、多くのバンドが出演します。将校クラスが聴くわけですから、当時日本で一流のジャズ・バンドです。また、当時のジャズというのは、流行の最先端でした


米軍が進駐した頃からサンフランシスコ平和友好条約が締結されて米軍の大部分が撤退する頃まで、およそ昭和20年代全体というのは、米軍の需要によるバンド活動というのが非常に盛んでした。今では考えられないほど、ミュージシャンが必要とされていました。


下記の労作に詳細が記されていますが、そして若き日のキャンプ回りをする松尾和子の写真も掲載されていますが、


当時日本には進駐軍の兵士が溢れていて、全国各地に米軍(連合軍)基地、キャンプ、居住地があり、それぞれの場所に多くの将校クラブ・下士官クラブ・兵員クラブが総数500個所程度あった、と。


これ、現代で言うとどれくらいの数なんだろうと思って調べてみたところ、2018年のみずほ銀行の支店数が465店舗なので、みずほ銀行の支店よりも米軍キャンプに存在するクラブの方が多かったってことです。当時はね。すごい数ですね。


そのため、非常に大きな市場というか、需要が発生し、ミュージシャンが全く足りなかったそうです。


なんっつったって、東京駅や新宿駅の南口や北口に、毎日音楽の仲介業者が立ってて、楽器を持って集まってきた人々を集めて即席のバンドを組んで、どこかのクラブに斡旋する業務まで行っていたそうなんで、ほんと今じゃ考えられないですね。


そのくらい豊富に仕事があった、と。


そのような状況の中での日本の一流ジャズ・バンドが、お客として日本人が入れなかった箱根富士屋ホテルで演奏していました。


そこに、日本のポピュラー音楽の最前線に、日本人が容易に聴くことのできなかった最高峰の生演奏が演奏される場所に、少女・松尾和子は幸運にも存在し、かぶりつきで聴いていたわけです。小さな窓から、ほとんど毎晩見ていました。


それが、歌手・松尾和子を生んだんですね。


そんなある日、箱根富士屋ホテルに「渡辺弘とリクイド・イン・シックス」というバンドが出演していました。


その渡辺弘が、少女・松尾和子に


「なんか歌ってみるか?」


と声をかけたそうです。


少女・松尾和子は、「アゲイン」という曲を歌いました。当時一世を風靡していたドリス・ディのヒット曲です。


すると、たまたま聴いていたプロダクションの人に「本式にやってみないか」と誘われます。高校を出ていない松尾和子は、箱根にいても仕事がありません。東京に出て行く決心をします。


当時のジャズ歌手


箱根から東京に出た若き日の松尾和子は、結婚して蒲田に住んでいた長姉の家に同居します。長姉の旦那がジャズバンドや歌手のマネージメントする仕事をしていたためです。この長姉の旦那さんが、松尾和子がジャズ歌手としてスタートする際、色々と面倒をみてくれました。


東京で渡辺弘のもとで勉強を始めますが、ほんの1ヶ月後、宮間利之のバンドの専属シンガーとして採用されます。宮間利之は海軍軍楽隊出身で、後年「宮間利之とニューハード」を結成して日本のトップ・ビッグバンドに成長させ、長く活躍された方です。


これは、特別に松尾和子が特に優れていたわけではなく、いや優れてはいたんでしょうが、先述のように当時はジャズ・ミュージシャンの需要がものすご〜くあったんですね。松尾和子自身も記しています。


「その頃の日本は、ジャズ歌手が少なかったので、英語を知らない私でも三曲覚えただけでプロになれたのです」『松尾和子の遺書 息子へ』


とにもかくにも、松尾和子のプロ歌手生活が始まります。進駐軍キャンプやクラブ回りのジャズ歌手でした。昭和26年(1951)・16歳です。

↑『進駐軍クラブから歌謡曲へ―戦後日本ポピュラー音楽の黎明期』掲載の写真


それはめでたいけど、歌手って稼げんの?


っていう疑問お持ちですよね?


この辺りも高度成長期以降生まれの我々にはわかりづらいところなんですが、松尾和子は歌が好きで才能があった、というだけで歌手の道に入ったわけではなく、お金を稼ぐ手段としても充分な見通しがあったから歌手の道に入ったんですね。


考えてみれば、先述の如く、大黒柱の父を失った松尾和子一家は、かなり貧しいわけです。松尾和子自身、述懐しています。


「私が9才の時父が亡くなり、戦争中だったので、食べる物がなく、着る物もなく、おばあちゃん(引用者註:松尾和子の母)と姉が二人で働いて私を育ててくれました。だから学校から帰ると、友達は皆遊んでいますが、私は家の事をやらなければ、おばあちゃんが仕事から帰って時間までに掃除洗濯晩ごはんまで作っておかなければ大変、棒で殴られます。」

下記著作からの引用。なお、松尾和子には姉が二人いたんですが、長姉は早くに結核で亡くなり、そのはるか後年に私信で上記記述をしているため「母と姉が二人で」という記述になっていると思われます。



ま、日本全体が貧しかったので、戦中・戦後に苦労した話、貧乏をした話は、あの頃の日本の、特に空襲を受けた都会のそれぞれの家族に多かれ少なかれあるわけですが、そんな中で、海のものとも山のものともわからない歌手になるというのは、ちょっと飛躍があるのではないか、と。そこが、当時を知らない我々には、よくわかんないとこですね。


しかし、そんなことないんですね。ミュージシャン、儲かったんです。再掲ですが、『進駐軍クラブから歌謡曲へ』を読んで知りました。


当時のジャズミュージシャンの収入は、収入が低い人でも普通の社会人の倍はもらっていて、穐吉敏子(ピアニスト)のような売れっ子になると、17歳(1946)ですでに大卒新任公務員(国家公務員上級試験合格者)の2倍の報酬をもらっていたそうです。22歳(1951)の頃には約50倍になっていた、と。


あぁ、そうか。だーから様々な才能がジャズに集まったんだな、と納得しました。


音楽演奏は仕入れいりませんからね。ま、勉強した時代が仕入れだといえば仕入れですが、普通の商売のような仕入れはいりません。そうすると、原価計算とか販売管理とか何だとか難しい話は必要ありませんし、最初に投資が必要ないので赤字になる可能性も低く、仕事さえあれば儲けやすいんですね。


進駐軍キャンプ回りをしていた才能というのは、とーても多くて、たとえば下記のような方々です。


・渡辺プロの渡辺晋

・ホリプロの堀威夫

・穐吉敏子

・渡辺貞夫

・白木秀雄

・ジョージ川口

・フランキー堺

・ハナ肇

・植木等

・谷啓

・江利チエミ

・雪村いづみ

・ペギー葉山

・ウィリー沖山

・小坂一也

・フランク永井

・弘田三枝子

・伊東ゆかり


努力できる才能、人と違う地点に行けた理由


16歳でめでたくプロ歌手になった松尾和子ですが、可愛らしくて多少歌が上手いという以外、経験も実績も知識もありません。


そればかりか、持ち歌さえ2〜3曲しかありません。


ということを松尾和子自身自覚しており、努力を始めます。


「もうその日からプロですよ。でも持ち歌が二、三曲しかない。休み時間に、いろいろなバンドの人にきくわけですよ。歌い手さんというのは、自分の歌は自分で譜面をつくらなきゃいけないのにあたしは持ってない。それからが大変。なまやさしいことでは許してくれないから、いびられたり怒鳴られたり・・・。四、五曲レパートリーができて、あたしは中学しか出てませんでしょ。英語も読めない。だからキャンプ廻りのとき、やさしそうな外人の兵隊さんに側で読んでもらって仮名ふって暗記するんです。(略)英語は兵隊さんから、譜面はバンドの人にくっついて教えてもらって、少しずつレパートリーが増えてきましたよ。二年もした頃は、ジャズのスタンダード・ナンバーはほとんど歌えましたね」 みんな不良少年だった―ディープ・インタヴュー

当時の進駐軍内のクラブには利用する兵隊の階級と同様に階級があり、代表的には下記の三種類があったそうです。


・将校クラブ

・下士官クラブ

・兵員クラブ


クラブによって音楽の好みが違うため、たとえば将校クラブでは上品でおっとり、兵員クラブでは元気の良い曲等、演奏の演じ分けが必要でした。


これは厳しい反面、ミュージシャンにとっては天国のような環境ですね。


お金をもらいながら、毎日毎日、客層によって演奏を使い分けて、様々な聴衆向かって、色々なミュージシャンと演奏できるわけです。ミュージシャンとして成長し、高みへ昇るにはこれ以上ない環境でしょう。


そのような豊かな音楽環境が、かつての日本にあったんですね。


そしてそれが、少し後、昭和30年代のナイトクラブブーム、ムード歌謡の全盛、昭和40年代以降の歌謡曲黄金時代への下地を作ったのでしょう。


努力という意味では、松尾和子は、19歳の時(1954年)、レイモンド・コンデに認められてゲイセプテッドの専属歌手になります。レイモンド・コンデは戦前から活躍したフィリピン人のクラリネット奏者&バンドマスターで、ゲイセプテッドは当時超一流のジャズ・バンドです。

松尾和子は、超一流バンドの専属歌手になれたと喜んでいたわけですが、レイモンド・コンデは便箋に100曲位の曲目を書いて、1日1曲、曲と歌詞を覚えて、さらに自分のキー(調)に直して、6人のメンバーの譜面を書いてきてくれ、と言ったそうです。


ひー!!(゚ロ゚)


当時はコピー機もありませんし、楽譜の出版も限られていたため、譜面というのはミュージシャン自身が誰かから書き写したり、耳コピで採譜して用意するものでした。


さすがに松尾和子も


「何も知らない曲を1日で覚え暗記する事など出来ません」


と言ったそうですが、


「それでは辞めてもらってもいいよ」


と、レイモンド・コンデは言ったそうです。


厳しいっすねー。


レイモンド・コンデは、知性あふれる穏やかな人だったそうですが、さすがに昔風です。


松尾和子、やると決めます。


寝る時間を3時間にして、信号の青が黄色に見えて、ノイローゼになりかかって、やせっぽちだったのにさらに痩せながら、全曲完璧にとは行きませんでしたが、何とかかんとかやり遂げたそうです。


「今までの歌手さんでこれをやり遂げた人はいない、和ちゃんだけだ」


と、レイモンド・コンデやバンドのメンバーに誉めらて、御飯をごちそうになったそうです。


ここがね、松尾和子のスゴさっていうか、才能っていうか、人と違う地点に行けた理由でしょうね。


100曲覚えるだけでも信じられないくらい大変ですが、それをさらに自分のキーに移調して譜面を書くまで行くと、もう殺人的です。


特に「6人のメンバーの譜面」てのが大変で、ドラム用・ベース用・ギター用、さらにレイモンド・コンデはクラリネット奏者ですからクラリネット用、それからゲイセプテッドにはビブラフォンが入っていたようなのでビブラフォン用を用意して、特にクラリネットの楽譜は普通のキーとは違うキーで書かなければなりませんから、移調した楽譜をさらに移調して記さなければならないわけです。


ひー(゚ロ゚)


学校で音楽を専門的に学んだわけでもないのに、松尾和子はそれをやり遂げた、と。


そこが、才能なんですね。


近年の研究では、「才能」というのは、誰かが初めから持っているものではなく、たゆまない努力の結果に獲得できるものであって、したがって努力できることが才能なんだ、ということがわかってきたそうですが、まさに、もう、松尾和子には才能があったんですね。


たぶん、レイモンド・コンデも本気で言ってるわけではなく、新人歌手のガッツや能力を試していたんでしょうが、松尾和子の才能に驚いたことでしょう。


力道山のクラブ・リキを経てメジャーデビューへ


さて、松尾和子が1954年にレイモンド・コンデ&ゲイセプテッドの専属歌手になる少し前、「進駐軍クラブ音楽市場」とでも言うべきものが急速に縮小します。


1952年に「サンフランシスコ平和条約」が発効し、進駐軍が撤退を始めたからです。日本の主権が回復して連合軍の占領が終了したんですね。


日本と米国は、「サンフランシスコ平和条約」と同時に「日米安保条約」を結んだので米軍は駐留を継続し、それが現在の在日米軍なわけですが、規模や人員はかなり縮小され、「進駐軍クラブ音楽市場」の規模や予算も急降下しました。


そのような状況において、音楽家は色々と次の道を探ったようです。


穐吉敏子ナンシー梅木のように、米国本国に活躍の場を求めた人もいます。


当時の音楽家たちにとって幸いだったのは、今度は民衆が彼らの音楽を求めたことです。ナイトクラブや歌謡曲の伴奏、そしてラジオやテレビで音楽が必要とされました。


というわけで、松尾和子はナイトクラブに活躍の場を移します。


当時、ナイトクラブというのはとても隆盛で、現在では考えられないほどの数がありました。戦争でひどい目にあった民衆が、娯楽として音楽を求めていたんでしょうね。


松尾和子は、レイモンド・コンデ&ゲイセプテッドで活躍した後、1958年、力道山が経営していた赤坂のクラブ・リキの専属歌手になります。力道山は、レイモンド・コンデの店によく来ていたそうです。


クラブ・リキで非常に人気が出て、彼女が歌う「メランコリー」(シャンソン曲・越路吹雪の歌唱で著名)を聴くためにビルの周りを何周分か人が並んだ、という逸話もあります。


クラブ・リキにいつも彼女の歌を聴きに来る客の中にフランク永井がいて、松尾和子を吉田正とビクターに紹介します。結果、メジャーデビューすることになります。


1959年=昭和34年です。


ムード歌謡の意味と吉田正の偉大さ


松尾和子は、1959年=昭和34年に「グッド・ナイト」と「東京ナイト・クラブ」の大ヒットでデビューしました。とても幸運で華々しいスタートで、一気にスターの階段を駆け上がります。

この両曲、特に「東京ナイト・クラブ」は男女で歌うデュエットソングの定番としてテレビでもラジオでも、そして後年出現したカラオケでも大人気だったため、松尾和子自身、何千回も何万回も歌ったことでしょう。


そうすると、どうしても様式化します。当初あった細かい味わいが失われて、大雑把になるんですね。どーしても。しょーがないんです。


ただ、ここんとこムード歌謡にとって重要なので記しますが、時代を経るとムード歌謡自体が様式化してしまいます。どうしても。ムーディー勝山がパロディにしたように。

で、後の世代にとっては、ちょっとした笑いの対象になっちゃったわけです。ですから、わたしのような後の世代、高度成長期生まれの人間がムード歌謡好きだと言ってると「なんで?」って不思議がられることが多いんです。


ムード歌謡というのは、戦前情報が統制されていてあまり聴く事ができなかった世界の音楽が、戦後一斉に入ってきて、それらの雑多な音楽を統合して日本化したものです。だから面白いんです。


ムード歌謡は作曲家の吉田正が切り開いた分野です。吉田正はメロディー・メーカーとして偉大です。もちろん。


しかし、それにも増して、戦後日本に流入した雑多な音楽を統合して日本化したムード歌謡を作り上げたところこそ、他に類を見ない偉大さがあります。


その吉田正の本当の偉大さを味わうには、昭和30年代前半の録音を聴く必要があります。そこに、吉田正が目指して作り上げた本来の表現があるからです。


「グッド・ナイト」と「東京ナイト・クラブ」も、後年に録音されたものではなく、松尾和子のデビュー時期に近い録音を聴くべきです。


なんですが、それがなーかなか難しいですね。昔はヒットした曲は何回も吹き込んでレコードにしましたから、編曲も様式化しちゃったものが多く流通するし、テレビの隆盛は松尾和子のデビュー以後ですから、録画されているものはほぼ様式化されたものだし。


昭和30年代の松尾和子の歌唱を堪能するためには「松尾和子 CD-BOX」が良いです。5枚組の全曲集なので、ちょっと高いですが、古い録音が多いので、良いですよ。



上記5枚組の1枚目の1曲目2曲目「グッド・ナイト」「東京ナイト・クラブ」が、松尾和子デビュー時期の録音です。それが、吉田正と吉田学校の教え子たちがタッグを組んで表現した「グッド・ナイト」と「東京ナイト・クラブ」の本来の姿です。吉田正は昭和20年代に編曲の勉強をしていたそうなので、編曲もやっているのではないか、と。


「グッド・ナイト」は、ゆっくりした曲でマヒナスターズのコーラスとスチールギターを存分に活かしているんですが、隠し味にシンセサイザーを使ってます。洒落てます。シンセがいつから使われたのかわかりませんが、すごく早い時期ですね。吉田正の著作『生命ある限り』によれば「クラビオン」という当時日本に一台か二台しかなかった電子楽器だそうで、昭和32年の「東京午前三時」から録音に使い始めたそうです。ジャズのビッグバンド編成にハワイアンを混ぜて、シンセで隠し味を付けています。


「東京ナイト・クラブ」は、「グッド・ナイト」と同様にジャズのビッグバンド編成なんですが、こちらはラテンの味わいで彩っています。


両曲とも、とてもみずみずしく、鮮烈です。後年録音されたものとは違います。


そして、松尾和子の歌唱法も後年のものとは違います。


デビュー当時の歌唱法とナイトクラブの歌い方


昭和30年代の松尾和子は、糸を引くようなレガートで、ひっそりと奥ゆかしく、愛する人に話しかけるように歌っていました。


後年のネットリとしたセクシーな歌唱とは違いますが、とても完成度の高い優れた歌唱です。これは昔の女性ジャズ歌手の歌い方であると共に、ナイトクラブの歌い方をブレンドしたのだと思われます。


出典を失念したんですが、確かBSの番組でマヒナスターズの松平直樹が、当時のナイトクラブでの歌い方を回想していました。


ナイトクラブというのは、お客さんは男女でやってきます。夜の女性たちが出勤前や出勤後にお客さんを連れてやってくることも多かった、と。で、踊りながら口説いたり口説かれたりするわけです。そのため音楽は、ムードがありながら、あんまりウルサかったりクドかったりするといけないそうです。なんとなく聞こえてるんだけど、よく聞くとしっかり歌っている、という歌い方が求められたようです。


ですから、その当時の松尾和子の歌唱には、ある種文化人類学的な美しさがあります。文化の要請に歌で応えている、というか。


が、繰り返しになりますが、当時の松尾和子の歌唱を聴くのが難しいんですね。


昭和30年代の松尾和子の歌唱を堪能するには、先述した松尾和子の全集も良いんですが、ちょっと高いので、映画をご紹介しときます。1961年=昭和36年に作られた『東京の夜は泣いている』という歌謡メロドラマがありまして、この映画で当時の松尾和子の歌唱を存分に聴くことができます。下記youtube動画は新東宝の公式予告編です。

この映画、映画としちゃ全然面白くないです(笑)なんかヘンな話で、松尾和子も活かされてないし。


が、最大の見所は、松尾和子がデビュー当時の歌唱法で「誰よりも君を愛す」他数曲をフルコーラスで歌ってるとこです。ナイトクラブのセットをバックに。それだけで十分価値あります。


それと、松尾和子のダンナさんだった大野喬が自身のバンド、というかおそらく二人のバンドだったナイト・シックス(6人の騎士)を率いて出演しています。


こーれは珍しいです。たぶん他では見ることができないです。


私は大野喬の映像を、この映画以外で見たことありません。本編を見るとコンガを叩いているのが大野喬です。


大野喬は、松尾和子が東京に出てきて最初に入ったバンド「宮間利之とニューハード」でドラムを叩いていました。19歳でした。松尾和子16歳の出会いです。


そして恋に落ち、一緒に青春を過ごし、同じバンドを渡り歩き、結婚します。デビューの前年、1958年=昭和33年です。


で、1966年=昭和41年に離婚します。


結婚とか離婚とか、私生活のことに興味があるわけではなく、この離婚で松尾和子は、16歳から32歳まで、音楽の世界に入った時から共にあった、非常に濃厚な関係の戦友というか、仲間を失うわけです。音楽への理解を共有し深める戦友、自分の歌に忌憚なく意見してくれる仲間を失ったわけです。


これが、昭和50年以降に響いてくる、と私は思います。


昭和30年代、40年代中盤までの松尾和子は、何を歌ってもある水準以上の歌を聞かせてくれます。全集なんかを通して聞くと。


一方、それ以降になると、過去の自身のヒット曲はとても良いんですが、その他の歌がダメになります。なんか、楽曲への理解が間違ってるというか、バランスに欠けたような歌になります。


なんでそうなるのかがどーも不思議なんですが、昭和40年代から、松尾和子は歌い方を変えています。その際、それ以前の理解ではなく、あたらしい歌い方にマッチした以前とは別の楽曲への理解が必要になったんだと思います。


しかし、おそらく歌への批評や理解をご自身で行っていなかったため、あたらしい歌い方による表現が十分深まらなかったのではないか、と。これ、青江三奈や江利チエミにも同じことを感じるんですが。


そうすると、歌への批評や理解を一緒に行ってくれる近しい人というかブレーンというかの不在、例えば大野喬の不在も理由の一つなのではないか、と。そんなことを思いました。


さて、松尾和子、昭和40年代から変貌を遂げます。


変貌


糸を引くようなレガートで、ひっそりと奥ゆかしく、愛する人に話しかけるように歌っていた松尾和子ですが、昭和40年代から変貌を遂げます。声の中音域〜低音域を強調し、ビブラートを深くして、個性を強調した歌い方へ変貌します。


おそらくご自身の声の変化に合わせて、もっと個性を出せる歌い方、特に声の出し方を模索したのでしょう。声の成分の高音域が減退したためか、あるいは中音域〜低音域のセクシーっぷりをご自身で確認したためか、デビュー時とは別の方向に舵を切ったんだと思います。


で、これが非常に見事に成功します。


ここがね、すごいな、と。


大ヒット曲を何曲も持った、成功した流行歌手が、歌い方・声の出し方を変えるわけです。勇気あります。簡単なことではありません。


松尾和子の2歳下で同じように米軍キャンプのジャズ歌手出身の江利チエミは、上手く変貌できず、歌手としての評価を下げています。


変貌後の歌は、例えば下記の『夜のためいき』という名盤で聞くことができます。昭和41年の録音。


また、下記の『或る窓』では、もっと個性を前面に出した歌唱を聞くことができます。平岡精二をプロデューサーに迎えて制作した昭和51年の録音。平岡精二は、戦後すぐに登場して活躍した名ビブラフォン・プレーヤーであり、「爪」「学生時代」など作詞・作曲・編曲者としても才能を発揮した才人です。彼もゲイ・セプテットに在籍していたので、二人は昭和20年代からの知古だと思われます。


ただ、面白い作品ではあるんですが、平岡精二のイメージを十分表現しているとは言い難いですね。平岡精二はとても先駆者で、現代的な面白い音楽を作ります。

例えば「また逢う日まで」や「別れの朝」で、別れを迎えても女性が卑屈にならず、顔を上げて去って行くような、男と対等の関係を暗示する歌詞が新しい時代の女性像だと言われたんですが、その意味では平岡精二の「爪」の方がぜんぜん先を行ってます。その現代的なところにちょっと付いていけてない感じですね。

ま、松尾和子にとっては実験作なので、そういうところに挑戦したんではありましょうが。


さて、この変貌を言葉で言い表すと、成人女性感や母性感を高めたっていう感じです。


デビュー当時の歌唱が少女が青春の不安と希望を胸に歌っているような表現だったとすると、変貌後の歌唱は、色んなことを知っていい女になった人物が歌っているような表現になっています。


わかりやすく「東京ナイトクラブ」で比較すると、昭和35年・25歳の発売当時は下記動画のような歌唱です。


それが、下記動画のように変貌していきます。下記動画はたぶん1978年に放映された「ビッグショー 吉田正 作曲生活三十年」じゃないかと思われますので、松尾和子43歳の時の歌唱ではないでしょうか。


とても優れた変貌だと敬服します。

ただ、これで終わりません。松尾和子の歌唱は、もう一回変貌します。


衰える声を補う歌唱法と歌手が必要とされなくなった時代


松尾和子の最後の変貌は、一つは年齢を重ねて声が衰えたこと、もう一つは歌手が必要とされなくなった時代が背景ではないかと思います。


本稿最初の方で述べたように、昭和20年代~30年代というのは、日本の歴史上かつてないほど歌手やミュージシャンが求められた時代でした。それは、連合国の占領による段階を経て、大変な災難のあと急速に成長する市民社会という需要があったからです。松尾和子も、その波に乗ります。


しかし、昭和40年代に入り、特に昭和50年代に入ると、どんどん歌手は必要とされなくなります。ヒットしている歌手・過去のヒット曲を持っている以外の歌手は、必要とされなくなります。


音楽再生装置が安価になって家庭に入った結果、音楽演奏はどこかに聴きに行くものではなく、家庭や通勤時間に聞くものになったからです。


そうすると、松尾和子のようなスターでも、歌う場所が減ります。そして、昔のヒット曲だけを何回も何回も歌うことになります。多くの聴衆は歌を聞きにきているわけではなく、流行歌手を見に来ているからです。


そうなると、歌唱のクオリティはあまり問われません。ヒット歌手が出てくればお客さんは喜ぶわけですから。そのため、精進を怠って衰えた声を聞かせる方々多いですよね。しょーがないですよね。人間てのは誰かに認められるために頑張るわけで、認められちゃったらあんまり頑張る必要もないですから。


しかし、年齢とともにどーしたって声は衰えます。特に、同じ歌を同じように歌っているだけだと。


歌は運動ですから、体を鍛える必要があります。誰でも年齢を重ねると筋肉量が落ちますから、歌う筋肉を維持するために努力が必要です。しかし、歌唱のクオリティが問われない状況においては、筋肉量を維持するための精進をする必要がなくなりますね。


つまり、ヒット歌手の場合、ある場所に呼ばれて行って舞台に立てば、たーくさんお金もらえるわけですから、歌う筋肉を維持することは彼ら彼女らにとっての必要最低条件ではなくなるわけです。


というわけで、どーしたって声は衰えていきます。しょーがないです。


そんな中、松尾和子はなんとか持ちこたえます。


動画を引用すると、動画が消されて何だかわかんなくなっちゃうので文字で書きますが、松尾和子50代、おそらく若い晩年の歌唱だと思われる動画を聞くと、声の衰えを、セクシーを増やすことで補っています。具体的には、タメとブレス成分を多くしてます。


ま、フェイク(ごまかし)と言えばフェイクなわけで、もうちょっと声がちゃんと出てれば、特に高音がもうちょっと普通に出せればこのようなフェイクも必要ないんでしょうが、ただ、そこら辺を補うためにこのような歌唱法を編み出したわけですね。


松尾和子は、その30年以上に渡る歌手人生を通じて、大変オリジナリティのある妖艶な歌唱法を編み出し続けました。


容姿でセクシーなのではなく、歌唱でセクシーを表現しています。


これがね、偉大です。このオリジナリティある表現が。20代から50代になるまで、独自の表現を開発し続けたわけです。


というわけで最初に戻りますが、松尾和子は、加齢を乗り越えて変貌を遂げた素晴らしい歌手です。


流行歌手というのは、十代や二十代の良い声の頃に歌ったヒット曲を、三十代や四十代や五十代になっても、つまり加齢によって声が変わってしまってからも、同じ曲を歌わなければならないわけです。


で、多くの場合、変声にうまく対応できずに、ただ


「懐かしい歌手が当時の曲を歌っている」


という枠に収まっていくわけですが、松尾和子の場合は、年代によって歌い方を変えて対応し、それが非常に的確で、あるレベルを保っていて、見事でした。


松尾和子は、晩年に起きたスキャンダラスな情報で多くの人々に記憶されていますが、そうではなく、素晴らしい歌手としての業績が少しでも伝わるよう、本稿を記しました。


芸術家ってのは、表現された芸術によって評価されるべきで、私生活や性格は本質的なものではありません。つまり、芸術と人格は切り離して考えるべきだ、と。切り離して味わうべきだ、と。


松尾和子の芸術が皆さんに伝わる一助となれば、幸いです。


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