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スルガ銀行とパトロン岡野喜一郎とベルナール・ビュッフェ


スルガ銀行とベルナール・ビュッフェ


スルガ銀行がやっちまいましたね。シェアハウスやアパートの投資を巡るトラブルで不適切な融資が続々と明らかになって、各方面から批判を浴びています。


お金をたくさん扱うとこってのは、高度な倫理を持たないと、あちこちで発生するバブルに踊りやすくて、怖いですね。どーしたって。スルガ銀行は、バブルの頃の他行の悪行に学んでなかったんですね。


しかし、スルガ銀行、わたしの中では評判良かったのに、残念だなぁ。


今はどうかわかりませんが、昔、わたしの育った厚木市のお役所の人々の給与とかの振込先に推奨されてたのはスルガ銀行だったそうです。なんか、大昔、大変困ってる時にスルガ銀行だけが援助してくれたそうで。


それと、こっちの方が重要なんですが、芸術関係者には「ベルナール・ビュッフェ美術館」を作ったパトロンとして昔から有名ですね。


「スルガ銀行が」っていうより、創業家出身で三代目頭取の岡野喜一郎がビュッフェの大コレクターだったんです。


特に、岡野喜一郎とベルナール・ビュッフェは同じ時代を生きてます。評価が定まって、作品も高額になる故人ではなく、同時代の芸術家を支援して個人美術館まで作っちゃったってのが良い話です。


芸術とパトロン


芸術にとってパトロンというのは、とーても重要な存在であり、彼らもまた芸術のプレーヤーです。彼らの存在と情熱によって素晴らしい芸術が生まれたり、日の当たっていなかった芸術家が評価されたりします。


近年有名な方だと、米国人でありながら日本人に伊藤若冲を再評価させたジョー・プライスですね。プライス・コレクション。


確かに、わたし伊藤若冲を知りませんでした。美術を学んでたのに。ま、戦後現代美術が専門だったので専門外と言えば専門外なんですが、さすがに雪舟や北斎は知ってましたから、以前はそれほど知られた存在ではなかったんですね。


それを覆したのが、ジョー・プライスです。↓この本読むと、収集と芸術にかける情熱に感銘を受けます。


欧米ってのは寄付とかパトロンとか、優れた他人や目的を持った何かを援助する文化が根付いてるんですね。たぶん、宗教との兼ね合いだと思うんですが。米国なんかだと、美術館でも寄付集めのパーティーを頻繁に開きます。


また、昔々米国行ってそーゆーこと研究してた人から聞いたうろ覚えですが、米国では芸術への投資や寄附に控除が広く適用されるので、芸術への投資や寄付もやりやすいそうです。日本でも昔に比べると多少制度が出来ているようですが、たぶん、たぶんですよ、芸術に寄付してもその寄付に税金がかかっちゃうと思います。昔も今も。


新島襄がですね、ちょっといま思い出したんで記しますが、同志社大学を創立した新島襄は、江戸末期に、国禁を犯して米国に密航したんです。聖書や米国の制度を学びたくて。


で、明治維新後、維新政府に発見されるわけですが、明治7年(1874)ヴァーモント州ラットランド市の伝道教会の年会で演説します。日本で革命がおこなわれたことを述べ、


「自分は日本においてキリスト教主義の大学をつくるつもりである。その資金が得られなければ日本に帰れない」


と言いました。つまり、若く、初々しく、近代文明の入口に立ったばかりの明治国家や明治国民の一つの指針として、米国で学んだキリスト教を根付かせたいのだ、と。


すると、演説が終わるや一人の紳士がたちあがって、千ドルの寄付を申しこみました。当時の千ドルというのは大金です。そして人々は次々に立ち上がって、たちまち5千ドルあまりの寄付が集まったそうです。


そして新島が演壇をおりたとき、かれの前に貧しい服装の老農夫が近づいてきて、二ドルを差し出しました。彼の有り金全部で、彼が家に帰るための汽車賃です。


「歩いて帰るつもりだ」


労農夫はいいました。


司馬遼太郎の『「明治」という国家』に記されたエピソードです。


つまり、米国の根源的な精神の中に、あるいは米国を作ってきたプロテスタンティズムの中に、ある目的や人物に対する寄付や援助の強い伝統があるわけです。


日本には、こーゆー文化はありませんね。戦後は。


その昔は豪農や庄屋が文人墨客を招いて制作を援助したりしたそうですが、敗戦後の農地改革で農地が解放されて豪農や庄屋がなくなっちゃったので、その文化もなくなりました。


で、戦後は、主に企業家として成功した個人が、それぞれに独力でがんばって芸術を支えている感じがあります。特に美術の場合。崇高なことだと思います。


パトロネージュは崇高なこと


パトロンの方々を見る際、普通の人は「お金持ちの道楽」と思いがちなんですが、違うんすよ。


ま、道楽と言えば道楽なんでしょうが、パトロネージュというのはとても崇高なことで、尊敬すべきことです。日本ではあまりそう思われていないのが残念なんですが。


芸術というのは素晴らしいことで、人生に必要なことです。


しかし、経済のシステムとは必ずしも相容れません。言い換えると、必ずしも儲かりません。


若く無名だった亡くなる前のモディリアーニと知り合いだったので作品を持ってて、それを50年後に売ったら目もくらむほど大儲けした、なんて話は非常に特殊な話で、ま、儲かるときもありますが、全体としてはあんまり儲かりません。資本主義のシステムとは別のところにあります。


別に儲からなくたっていいですし、芸術家が儲かるかどうか考えてるようじゃいけませんが、どっちかっていうと儲かった方がいいですよね。例えばの話、儲からないと芸術家も生活できませんし、そのために他に仕事を持ったとすると、芸術に没頭することができません。


そのようなギャップを埋めるのが、パトロンの方々です。


パトロンは、ご自身の資産を使って、その資産を不動産でも債券でも、資本主義のシステムに組み込まれたモノを買って資産を増やすこともできるのに、わざわざ資本主義の外にあるような芸術に資産を投下して、さらに多くの場合、人々に公開してくれるわけです。


崇高じゃねーすか?


そんな中の有名な一人が、スルガ銀行の岡野喜一郎とビュッフェ美術館でした。


岡野喜一郎青年の精神を救ったビュッフェ


岡野喜一郎はスルガ銀行創業者の孫で、三代目頭取です。1917年(大正6年)の生まれですから、ドップリ戦中派世代で、第二次世界大戦に従軍します。戦争からやっと復員した20代後半、上野の森の美術館でベルナール・ビュッフェに出会います。


ビュッフェというのは、世界中に熱烈なファンと獲得する一方で「世俗的過ぎる」というような意味で、常にある種の嘲笑を浴びせられました。


世俗的だってわかりやすくたって、良い芸術ならいいぢゃねーか。と、わたしなんか思うですが、ただ、ま、20世紀の芸術というは哲学の問題になった、というか、つまり新しい概念や新しい手法を提示することが主流になったので、ビュッフェのような具象絵画というのは美術史的には評価が高くなくて、そーゆーことを気にする人から見るとカチンとくるらしいです。


しかし、ビュッフェが登場した時は違います。


戦争の悲惨さと打ちひしがれた喪失感、孤独や不安、つまり第二次世界大戦によって荒廃した世界、そして当時の若者達が抱いていた社会の不条理、疲労感、焦燥を、独自のスタイルで見事に表現して熱狂的に迎えられました。19歳でした。


そして、戦争から帰ってきて20代後半だった岡野喜一郎青年の心も捉えます。


「数年にわたる戦争から復員したばかりの私は、感動して彼の絵の前に呆然と立ちつくしたことを思い出す。研ぎすまされた独特のフォルムと描線。白と黒と灰色を基調とした沈潜した色。その仮借なさ。匕首(あいくち)の鋭さ。悲哀の深さ。乾いた虚無。錆びた沈黙と詩情。そこに私は荒廃したフランスの戦後社会に対する告発と挑戦を感じた。当時のわれわれ青年を掩(おお)っていた敗戦による虚無感と無気力さのなかに、一筋の光芒を与えてくれたのが彼の絵であった。国土を何回も戦場にし、占領され、同胞相殺戮しあったフランス。その第2次世界大戦の激しい惨禍のなかから、このような感受性と表現力をもった年若き鬼才が生まれでたことに畏怖の念をいだいた。その表現力はまさしく、私の心の鬱々としたものに曙光を与えたのである。以来、私はビュフェの虜となった。無宗教の私に、一つの光明と進路を与えてくれたのが、ほかならぬ彼のタブロオそのものだった。これが私のビュフェへの傾倒のはじまりである。」

岡野喜一郎 著『ビュフェと私』


ま、言葉にするとそーゆーことで、言葉としては理解できるんですが、なんでしょうね。伝わんないですね。戦争を知らない我々には。


戦争ってのは大変なことで、もう人格が変わっちゃうくらいの災難で、見るものをすべて石に変えてしますメドゥーサみたいなもんですね。


ですから、戦争からやっと復員した岡野喜一郎青年が「虚無感」と書く時、それは我々が捉える虚無感よりももっともっと深い虚無感であり、岡野喜一郎青年が「光芒」と書く時、それは我々が捉える光芒よりももっともっと本来の意味での光芒なんでしょうね。


つまり、岡野喜一郎青年の精神を、ビュッフェの作品が救ったわけです。


世界で唯一のベルナール・ビュッフェ専門美術館


そして岡野喜一郎はビュッフェ作品の収集を始め、1973年(昭和48)のベルナール・ビュッフェ美術館開館までにタブローを200点、版画を300点余集めます。


ビュッフェの作品だけを集めた美術館は世界初でした。今でも世界唯一です。


素晴らしい情熱ですね。美しいです。


ただ、ビュッフェというのはとても内気な人で、アトリエで絵を描いているのが大好きなので、あまり長期に出かけたがらなかったそうです。


そんなわけで、岡野喜一郎が情熱を傾けた、当時も現在も世界で唯一の「ベルナール・ビュッフェ美術館」が創設された時も、来日しなかったそうです(笑)奥さんのアナベルだけが来日して開館式に出席したそうです。


しかし開館の7年後、1980年ビュッフェ52歳の時にベルナール・ビュフェ美術館の招きに応じてやっと初来日し、すっかり日本びいきになりました。この時の日本来訪の印象が「日本への旅」「日本の古寺」っていうシリーズになりました。


というわけで、スルガ銀行、なんとか持ち直してほしいです。


そして、ある大コレクターの人生と情熱が詰まったベルナール・ビュッフェ美術館のパトロネージュをなんとか続けてほしいもんです。