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小説:南伊豆町手石漁港女子プロボクシングジム その3



日本プロボクシング協会

半年たって、秋になった。

旅行者3人を乗せた小さな漁船が手石漁港から出港していく。モコモコした服装に救命ジャケットが着づらそうだ。漁港のお昼頃は、普通、関係者が全然いなくなって閑散とするが、手石漁港には、お昼頃で多少人はいる。東京より5度くらい暖かいので、夏が過ぎても釣りやダイビングに来る人がいるためだ。

それに、今年は手石漁港女子ボクシングジムができた。ジムは13時開始〜19時終了だが、会員の多くは夕食を作る前の13時〜15時の間にやってくる。その時間は、冬でも「賑わっている」と言えるような活況だ。

13時にジムに到着するようにコーチが別荘地から歩いて出てきた。ジムに近づくと、

「コーチー、コーチー」

と漁協長の声が聞こえた。コーチがあたりを見回すと、漁協事務所の2階の窓から体を乗り出していた。あんまり必死なのでコーチが苦笑して会釈すると、

「ちょっと寄ってってよ。コーヒー出すよ」

と漁協長が言った。

2人で漁協の応接セットに座ってコーヒーを一口飲むと、茶碗を置いた途端に漁協長が言う。

「なんかさ、思ったより、みんなちゃんとやってんね」

コーチ、作り笑いで応じる。

「そうですね。みんな熱心ですね」

漁協長、一礼する。

「コーチのお陰だわ。ありがとね」

コーチ、疑いの目になっている。

「おかしいな。漁協長、なんかおかしい」

漁協長、ドギマギして、コーヒーを二口飲む。コーチ、疑い深い目で尋ねる。

「なんかたくらんでますね?」

漁協長、一層ドギマギする。

「た、たくらんでねーらー。た、たださ、どう?ちっとは才能あるやついた?プロになれそうな」

コーチ、疑いの目をといて、コーヒーを一口飲む。

「いますよ」

漁協長、喜んでちょっと腰を浮かす。

「え?いるの?そりゃいいや。コーチ、そいつら、なるべく早くプロにしてよ」

コーチ、ブーたれる。

「えー?まだ始めて半年ですよー」

漁協長、拝むように言う。

「わかってる。わかってる。でもさ、オレの方も色々あんのよ。「なんで使わせねーんだ」って男どもはうるせーし、町長に予算付けてもらったから町議会で説明しなきゃいけねーし、なんかわかりやすい実績あると助かんだよねー」

コーチ、難しい顔をして天井をにらみながら、言う。

「、、、わかりました。やってみます」

漁協長がビッグスマイルになった。

「わかってくれる?ありがとね。コーチ、ものわかりいいね」

コーチ、漁協長をビシッと見つめて言う。

「漁協長のご苦労はわかってますから」

漁協長、ちょっと感極まって、コーチの両手を両手で握った。

コーチがジムに入っていくと、あちこちから「ちーす」と声があがる。コーチは声に応えながら、マリを探して近くに寄っていった。マリはシャドーをしている。コーチが尋ねる。

「今朝、ロードやった?」

マリがシャドーをしながら答える。

「あたりまえじゃん」

コーチが尋ねる。

「いま、何ラウンド?」

マリが答える。

「6ラウンド」

コーチが言う。

「じゃ、12ラウンド終わったらミットやろう」

マリがシャドーをしながら答える。

「ういーす」

コーチ、今度はルミを探す。ルミは縄跳びをしている。コーチ、ルミのそばに寄っていって尋ねる。

「今朝、ロードやった?」

ルミが縄跳びをしながら答える。

「はい。8km」

コーチが言う。

「えらい。いま何ラウンド?」

ルミが答える。

「2ラウンドっす」

コーチが言う。

「じゃ、12ラウンドになったらミットやろう」

ルミが答える。

「はい」

ゴングが鳴って、みんな休憩に入る。ジム内の漁協側の一面に折りたたみイスが6個ほど並べてあり、練習生が思い思いに休んでいる。コーチがイスに座ると、イスを一つあけた隣に母レーコが腰をかけた。

「コーチィ」

見ると、母レーコが噴き出すように汗をかいている。母レーコがなげく。

「週3日、こんなに練習して汗かいてるのに、痩せないのはナゼ?」

コーチ、苦笑する。

「そらー、それ以上に食べて飲んでるから、、、」

母レーコ、不満そうに言う。

「そんなに食べてないのになー」

母レーコのあちら側に座ったトモ子が笑いながら言う。

「食べてんのよ。太ってる人はみんな「そんなに食べてないのに」って言うのよ」

母レーコもコーチも笑った。トモ子が言う。

「でもさ、いいじゃない。たくさん動いて、たくさん食べて、健康なら」

コーチが同意する。

「そうそう。それがいいよ。プロになるわけじゃないんだから」

母レーコがあきらめたように言う。

「まーねー。でもねー、なーんかフに落ちないのよねー」

ゴングが鳴る。マリがサンドバッグを打ち始める。いい音。イスに座って、母レーコとトモ子とコーチがマリがサンドバッグに打ち込んでいるのを見ている。母レーコが尋ねる。

「マリ、いいパンチ打てるようになってない?」

コーチがうなづく。

「いいね。いいパンチになった。筋肉がついて、腰がはいってきたね」

母レーコが尋ねる。

「あとどれくらいでプロになれるかな?」

コーチが考える。

「そーだなー」

考えていて、ハッとした。

「あっ!?」

「はぁぁ!?一千万円ん〜!?」

漁協長がすっとんきょうな声を出した。漁協の応接セットに母レーコ、トモ子、コーチ、漁協長が座っている。コーチが申し訳なさそうに言う。

「えぇ。日本プロボクシング協会、JPBAって略称ですけど、そこに加盟したジムからしかプロテスト受けられないの忘れてました」

母レーコが尋ねる。

「その加盟金が一千万〜!?」

コーチがうなづく。みんな「うーん」とうなって、ドンヨリした雰囲気になった。トモ子が言う。

「イチローくん、出してよ」

漁協長が苦しげに言う。

「無理だよぉ。ジム作るのだって、予算200万円なのに、男共の反対を押しのけて、やっとこさ予算付けたんだぞー。1000万円なんて、その5倍じゃねーか。たーいへんだよー。考えたくない」

みんな「うーん」とうなってドンヨリした空気になった。コーチが言う。

「ま、伊東のジムは協会に加盟してるから、最悪あそこに通ってプロテスト受ければ、、、」

漁協長が言う。

「でもなー、せっかくの手石の娘がなー」

母レーコが苦しそうに言う。

「それって、無料じゃないでしょ?」

みな「うーん」とうなって、ドンヨリとした食う空気になる。漁協長が思い切るように口を開く。

「ま、みんなで考えててもしょーがないから、あちこち相談してみるよ」


ルミとダンナ


手石漁港の先にある灯台が、海の夜を照らしている。回りに障害物は何もないので、光の帯がどの方向にも一直線に伸びていく。

漁港近くの集落にも、夜の灯りがともっている。

家の中で、すごく谷間の見える服を着て、ユー子が料理をしている。

オカズが一品できたので、ダイニングでかしこまってお茶を飲んでいるコーチの前に出す。当然、谷間を見せながら。当然、コーチは食い入るように谷間を見つめる。ユー子は、吐息を多く含んだセクシーな声で言った。

「はい。コーチ、どーぞーぉ、、、」

そこへマリの声が。

「やめて、ユー子ちゃん、不必要にセクシーな声出して」

ユー子は「ち」という顔をして、吐息を含まない普通の声で言った。

「なによ。あんた。なんでいつもくっついてくんのよ」

マリはお箸を持って、「ゴハンくれ」という顔でコーチの横に座っている。

「だってー、ユー子ちゃん危ないからさー。コーチも谷間に釘付けだしー」

コーチ、どぎまぎする。

「えっ!?今夜は見てないでしょ?」

マリとユー子、半開きの目になってコーチを凝視する。コーチ、さらにどぎまぎする。

「えっ!?えっ!?見てた??見てた??」

それに答えず、ユー子、マリとコーチの茶碗にゴハンを入れて渡す。コーチとマリ、「いただきます」と言って食べ始める。ユー子は二人の向かいに座って、ワインを飲み始める。ユー子が尋ねる。

「プロになれそうなコはいるの?」

コーチ、楽しそうに話題に乗る。

「いますよ。このマリちゃんとルミちゃん」

ユー子が言う。

「あぁ、ルミは熱心にやってるわねー。いつも走ってるし、、、」

マリが口を挟む。

「あたしも一緒に走ってるよ」

ユー子、自分でワインをついで飲む。マリが笑う。

「あっ、ガン無視」

ユー子も笑う。ワインを一口飲むと、あっちの方を見ながらつぶやくように言った。

「プロになれるといいねー。なんか、夢あるよねー」

コーチが食べながら尋ねる。

「夢ありますか?」

ユー子、やはりあっちの方を見ながら答える。

「あるよー。なんかさー、男に媚び売ってるだけじゃなくてさー、女の未来が広がる感じじゃない?」

コーチが不思議そうに言う。

「そうですかね?」

ユー子がマリを力強い眼で見ながら言う。

「そうよー。マリ、プロになるんだよ」

マリがゴハンを食べながらうなづく。

「ういす」

ユー子が笑った。

「よし。プロになったら、アタシが豊胸手術代出してやる!」

マリが高ぶる。

「えぇぇ!ほんとー?うれしー!!」

マリ、茶碗とお箸を机の上に置いて、向かいにいるユー子に抱きつく。それを見たコーチが冷ややかに言う。

「やめなよ。豊胸なんて」

マリとユー子が抱き合いながら、半開きの眼でコーチを見る。コーチはパクパクごはんを食べている。マリが非難するように言う。

「巨乳好きとは思えないお言葉」

コーチがごはんを食べながら答える。

「オレはナチュラルな巨乳が好きなんだよ。ありがたーい感じするだろ?自然が生んだ造形美っていう感じだろ?」

ユー子が首をかしげる。自分の席に座ってゴハンを食べ始めたマリに向かって尋ねる。

「する?」

マリも首をかしげる。かまわずコーチが続ける。

「なんつーかな、わかりやすく言えば、貧乳は普通のステーキに普通の盛り合わせね。ポテトとかニンジンとか。巨乳は普通のステーキに付け合わせがエッグベネディクトなの」

ユー子が驚いたように言う。

「そーなの?」

マリが不思議そうに言う。

「エッグベネディクトってなに?」

かまわずコーチが続ける。

「でもさ、普通のステーキに普通の盛り合わせが大好きっていう人もたくさんいるんだよ。それぞれに頼みたいモノは違うわけだから。だから偽物のエッグベネディクトなんていらないんだよ。普通の盛り合わせが大好きな人が頼めなくなっちゃうんだぞ」

ユー子がコーチを見つめながら言う。

「うーん、なんか説得力あるような、全然ないような」

マリが二人を交互に見ながら言う。

「エッグベネディクトってなに?」

夕食が終わり、ユー子の家の玄関からコーチとマリが出てくる。マリが注意している。

「ダメダメ、ほら、ユー子ちゃん、谷間見せないの」

ユー子、苦笑する。

「ほんとにうるさいわね、あんたはもう」

ユー子、声音を変えてコーチに言う。

「コーチ、また来週ね。他の女のとこで浮気しちゃダメよ。来週は大好きなハンバーグ作ってあげるから」

コーチ、苦笑しながらユー子の谷間に言う。

「はい。お願いします。楽しみです」

ドアを閉めて、コーチとマリが歩き出す。マリが言う。

「じゃ、あたしロードして帰るから」

コーチが言う。

「お。気をつけてな。あんまりやり過ぎちゃダメだよ」

「はーい」と言って、マリが走りだした。

マリが走って漁港についた。漁協事務所の近くの街灯の下で足踏みしながらあたりを見回す。ジムの方に何かを見つけて細めにして凝視するが、暗くてよくわからないので走って近づいた。ジムの前の花壇にルミが座っていた。マリが言う。

「ルミちゃん、どしたの?ロードやろうよ」

ルミが少し下を見ながら、疲れたような声で言う。

「よし。やるか」

と立ち上がった。なんか、不自然に下を見ている。マリがジッと見る。ルミが上目遣いにマリを見る。マリが、やっぱりジッと見ている。マリが近づいて、ルミの顔をのぞきこもうとする。ルミがイヤイヤしながら別の方向を見る。マリがイヤイヤするルミを押しとどめて、下から顔をのぞき込むと、眼が腫れていた。マリ、ルミの手を引いて街灯の下に行く。ルミの顔をじっくり見て、マリが言う。

「またー?」

夜のジムの灯りがついた。ルミとマリと、救急箱を持った漁協長が入ってきた。少したってコーチが入ってきた。母レーコもクミを連れてやってきた。次にトモ子がジムに入ってきて、ルミを見て言った。

「まーた、あいつ、、、」

ルミが手当を受けながら言う。

「いいんです。いいんです。あたしが悪かったんです。また浮気疑っちゃって、、、」

母レーコが怒る。

「あんたが悪かったことなんて、ないよ。あいつ、昔っからしょーもないやつだったけど、治んないんだねー」

漁協長が怒りを隠しながら、ルミに言う。

「あのな、今までは、言ってみりゃ人ごとだったから黙ってたけどな、今は、オレたちは仲間だからな、オレたちの将来有望なジム生が殴られてんだぞ。冗談じゃないぞ。もう黙ってられないぞ」

マリと母レーコとトモ子が同意する。

「そうそう」

「そーだそーだ」

「さーすが、イチローくん、いいこと言う」

漁協長、やわらかい顔になってルミに尋ねる。

「ルミ、言っちゃ悪いけどよ、何であんなのといるんだら?」

ルミ、視線を床に落とす。トモ子が言う。

「そーよ、そーよ。あんな、静岡伊勢丹のライスカレー食べるのが生きがいみたいな男」

ルミが言う。

「だってぇ、、、あたし、親もキョウダイもいないし、行くとこないし、、、あいつ、やさしい時はやさしいし、、、」

ルミ以外の全員が首を振る。左右に大きく振る。トモ子があきれたように言う。

「ダメ男好きの女が言うことだねー」

母レーコがあきれ顔で言う。

「あいつ、ほんとダメだよ。この前もサ、横浜から来た二人組を一生懸命ナンパしててさ、ほーんとみっともない。あたし注意したの。みっともないからやめな、って」

ルミが力なく笑う。

「あの野郎、、、」

マリがおかしそうに言う。

「ははは。急に怖いルミちゃんが出てきた」

トモ子が言う。

「もうさ、ぶちのめしちゃいなよ。我慢してないで」

マリと母レーコがはやし立てる。

「いいぞいいそ」

「ぶちのめしちゃえー」

コーチが困った顔で言う。

「ダメだよ。ケンカにボクシング使っちゃ」

みんな驚いてコーチを見た。マリが言う。

「え?ダメなの?」

コーチはマリを見つめて言う。

「ダメだよ」

不服そうなマリ。コーチはマリとルミを交互に見ながら言う。

「キミたちは、普通の人に比べると武器を持ったようなもんなんだぞ。ボクシングっていう武器ね。だから、武器を持ってない人にそれを使っちゃいけないんだよ。それが武器を持つ責任てもんだ」

みんな、シーンとする。コーチが念を押す。

「つか、ボクシングやってるやってない関係なく、試合以外で人を殴っちゃダメだよ」

みんなシーンとする。マリが新しいタオルを絞ってルミの顔にあてた。と、急に漁協長がヒザを叩いた。

「よし。わかった。試合やろう、試合。ルミとダンナで。それに観客集めてスポンサーも募ろう。1千万円の足しにしよう!」

女性陣はみんな「えぇー!?」となった。コーチは漁協長を指さして言う。

「さーすが漁協長、それ名案!」

今度はコーチを見て女性陣はみんな「えぇー!?」となった。漁協長が説明する。

「だってさ、お前らも知ってるら?あいつ、格好つけの卑怯なやつだから、もしもよ、やっちゃいけないことだけおさ、もしももしも、ルミに家の中でKOされても嘘ついて、弁解して、言い訳して、ごまかすら」

みんなうなづいた。「確かに」となった。漁協長が続ける。

「それに、ルミがプロになっちゃったら、もうそんなことできねーら?ダンナ殴ったって、ライセンス剥奪だら?」

みんな一層うなづいた。「確かに」となった。漁協長が、さらに続ける。

「そしたら、この秋祭りあたりに、ルミがプロになる前にリング上でハッキリやっつけちゃえばどうよ?な、ルミ」

ルミが漁協長の発言を食い気味に、唸るように言う。

「おーし」

マリがおかしがった。

「あ、すっかりやる気満点」

ルミがマリを見て言った。

「あのやろー、今までの借りまとめて返してやる」

マリは半笑いでコーチを見て言った。

「すごい気合い入ってる」


ダンナと試合?


手石漁港は、海の近くの山の麓に作られたような形なので、一部の住民の家は坂に沿って作られている。ある家から、身ぎれいなチンピラみたいな格好の男が出てきた。家の中に向かって礼をしている。チンピラがふと坂の上を見ると、ルミが立っていた。チンピラが言う。

「ルミ」

捨てられた子犬のような顔をして近づこうとすると、母レーコとトモ子が出てきてルミの左右に立つ。トモ子が言う。

「近づくな、このクズ」

トモ子横で、マリがスマホを構えて動画を撮っている。チンピラは立ち止まって母レーコとトモ子をにらんだ。トモ子が続ける。

「にらんだってダメだよ。キヨシ。このクズ。お前、ほーんと、昔っからクズだなー。だからルミは、これからお前のような者がいない所で暮らす。帰ってきてほしければ、ボクシングの試合をしろ。お前が勝てばルミは家に帰る」

キヨシ、ぎこちなく微笑しながらルミに向かって手を伸ばす。

「何言ってんだよ。ルミ、家に帰ろう」

母レーコがその手を払った。

「触るな。まともな人間のフリして。このバカ」

キヨシが「なんだとテメー」と言いながら、母レーコにつかみかかろうとした。ルミが右ストレートを出してキヨシの顔寸前で止めた。母レーコとトモ子がビックリして声をあげた。

「あっ」

「あっ」

ルミが、ケンカにボクシングを使いそうになったのを謝るように、母レーコとトモ子を交互に見て言う。

「だって、すごい顔で向かってくるんだもん」

ふと見ると、キヨシが固まっている。ルミとトモ子と母レーコとマリ、少し後ろにそそくさと移動する。またルミを真ん中にして仁王立ちした。マリは動画を撮っている。トモ子が話し出す。

「どうだ。キヨシ。試合するか?試合しないと、ルミはもう帰ってこないぞ」

キヨシ、少し固まっていたが、急に言う。

「や、や、やってやるよ」

そう言い残すと、きびすを返して去っていった。

ルミたちのすぐ後ろの角から、コーチと漁協長が見ている。コーチが面白そうに言った。

「みんな、役者ですねー」

漁協長は難しい顔で、確認するように言った。

「いま、試合決まったよね?」

コーチが笑いながら言う。

「えぇ。決まりましたね」

漁協長も破顔した。

「楽しくなりそうだね」

コーチと漁協長が笑い合った。

「いひひひひひ」

「うひひひひひ」

YOUTUBEの動画で、キヨシが「やってやるよ」と言っている。画面に煽り文句が出てくる。

【ダンナは浮気したのか?】

【妻のパンチは炸裂するのか?】

【10月10日 手石漁港特設会場 入場料(ジムへの寄付)800円 特設リングサイド5000円(飲み物付き)】

キヨシと友人二人がパソコンから目を離す。友人が苦笑しながら言う。

「おまえ、思いっきりくらいそうじゃん。てか、もはやくらってんじゃん」

キヨシが言い訳をする。

「だってさ、急だったからさ、なんか死角にもなってたし」

もう一人の友人が言う。

「ひとっつも対応できてないじゃん」

キヨシが言い訳をする。

「いや、だってよ、見えないとこから出てきたんだよ。あのオバさん二人がパンチ隠してたんだよ。普通に試合だったら当たるわけねーよ。女に負けるわけねーじゃん」

友人が笑う。

「まーなー。普通、負けねーわなー。じゃ、ま、景気づけに飲みに行くか?」

漁協近くにある「スナックゆうこ」の看板に灯りが入っている。キヨシと友人二人がカウンターに座って、おしぼりで手を拭いていると、ユー子がお通しを持ってきた。谷間は出ていない。

「すごいじゃん。あんた。すごく話題になってるよ。試合」

キヨシが笑う。

「エヘヘヘ。そう?」

ユー子が尋ねる。

「あんた、なんかスポーツやってたっけ?」

キヨシが言う。

「やってないよ」

ユー子、ちょっとビックリする。

「それでだいじょぶなのー?ボクシングできるの?」

キヨシ、何気なく言う。

「ボクシングはできないけど、女に負けるわけねーっしょ」

友人二人がうなづく。

「そらそうだ」

ユー子もビッグスマイルで追従する。

「そうだよねー。いいねー、その自信。何飲む?景気づけにボトル入れる?」

キヨシが言う。

「いいねー。景気づけ。入れよう、入れよう。サントリーの高い方ね」

友人二人がはやし立てる。

「ヒュー、キヨシ、かっこいー」

ユー子もはやしたてる。

「ヒュー、ヒュー」

キヨシ、両手をあげて応える。

翌日、ジムでコーチがみんなの練習を見ながら座っていると、ゴングが鳴って横にユー子が座った。谷間のよく見えるトレーニングウェアを着ている。

「昨日、キヨシがお店に来たよ」

コーチ、興味深そうに、でもユー子の方は向かず、不自然に正面を見ながら言う。

「へー。彼はユー子さんのお客さんなんだ。どうでした?」

ユー子がヤな顔をしながら言う。

「バカだったわ。話すほどに。相変わらず」

コーチが「ははは」と笑う。ユー子が続ける。

「スポーツやったことないんだって。でも、女相手には負けないんだって」

コーチがニヤける。

「いいね。そのオゴり。そのまま当日まで行ってくれると助かるんだけどなー」

ユー子、楽しそうに言う。

「じゃ、色んなこと吹き込んどくよ。打ち合わせ通り。左フックのことも」

コーチがやはりユー子の方は向かず、不自然に正面を見ながら言う。

「お願いします。みんなでがんばりましょう」

ユー子が微笑する。

「うん。みんなでがんばろう」

少し間がある。ユー子がポツリと言う。

「ほんとはね、ボトル入れてくれるお客さんにそんなことしちゃいけないんだけど、、、」

ゴングが鳴った。ユー子が練習を再開しようと立ち上がった。コーチの正面に立って中腰風になって胸の谷間を見せつけながら、甘い声で言う。

「コーチのためだしさ、、、漁港の女たちのためだしさ、、、」

あまりに谷間を見せつけてくるので、コーチはついに谷間を見てしまう。そして、食い入るように見入る。ユー子の言葉に微笑で反応しようとしたが、ユー子の顔にではなく、谷間に微笑みかけてしまった。ユー子は「してやったり」という笑顔になった。


作戦〜かみのひだり


ジムの外に、キヨシの友人二人が立って中をうかがっている。ジムの中ではルミがサンドバッグに向かって右ストレートを打っている。サンドバッグを挟んだ反対側にコーチが立って、小声で指示している。

「もっと弱く、もっと弱く」

サンドバッグは「パスっ、パスっ」という情けない音を出している。

ゴングが鳴る。コーチとルミがイスに座ると、マリが目の前に立って言った。

「帰ったよ」

コーチが言う。

「よし。偵察員もいなくなったところで、ルミちゃん、本気でやってみよう」

ルミがサンドバッグに向かって右ストレートを打つ。コーチがルミの反対側になって、サンドバッグを押さえている。さきほどとは違い「ドス、ドス」と鈍い音が響き、コーチの体に衝撃がある。

ゴングが鳴ってコーチがイスに座ると、ルミとマリがその横に座る。

「おし、おし、おし。いいぞ。右ストレート良くなってきた。ランニングと縄跳びが効いてんな。よし。では、ついに、ついに特別作戦を授けよう。名付けてぇ〜、、、」

ルミとマリが真剣に聞いている。コーチは不満そうに言う。

「なんだよ。「名付けてぇ」って言ったら、「な、名付けて?」って復唱してゴクッてならないとー、、、」

ルミとマリ、しょーがねーなー、という顔で言う。

「え?はーい」

コーチが再び言う。

「名付けてぇ〜」

ルミとマリはしょーがないから付き合う。

「な、名付けて?(ゴクっ)」

コーチが高らかに言う。

「「かみのひだり」作戦!」

ルミとマリの眉間にシワが寄った。

ジムの端っこで、コーチとルミとマリがノートパソコンの画面を見ている。画面にはYOUTUBEの山中慎介選手KO集が流れている。コーチが少し興奮気味に言う。

「ほら、すごいだろ?これあ山中選手の「かみのひだり」だぞ。「左ストレートが来る」ってわかってても、くらっちゃうんだよ。相手は世界ランカーだぜ?トップボクサーだぜ?強いんだぜ?」

ルミとマリが食い入るように見ている。コーチが少し興奮気味に言う。

「山中選手はアッパーもボディーもほとんど打たないで、ワンツーだけで世界戦で30回ダウンを奪ったんだぜ」

ルミとマリが画面を見ながら、心を込めないで言う。

「へー」

「すごーい」

山中慎介選手KO集が終わって、3人とも画面から目を離す。マリがコーチに向かって尋ねる。

「でもさ、こんなスゴいチャンピオンの真似できるの?」

コーチが微笑する。

「いい質問です。これがね、できるの。キーワードは「距離感」」

ルミとマリが声を揃えて言う。

「きょりかん?」

リングに3人が立っている。コーチとマリがファイティングポーズで向かい合っている。ルミは、コーチの後ろに立っている。コーチがルミに言う。

「この位の距離で打ち合うじゃん?相手も「この位の距離ならパンチ出してくんな」って思ってるわけじゃん?」

ルミが「はい」とうなづく。コーチ、後ろにいるルミを見て言う。

「この距離を外すのね。もう一歩下がってみようか」

コーチ、一歩下がってファイティングポーズをとる。マリに尋ねる。

「ここだとどう?」

マリが答える。

「うーん、ちょっとパンチ来る感じはないね。休みに入ったのかな?みたいな」

コーチが笑顔で言う。

「でしょ?でも山中選手はこの位の位置からストレート出すのよ」

ルミとマリが「えー」っと驚く。コーチが言う。

「こうやって、、、」

コーチ、マリに向かって軽く右ストレートを入れてみる。

「これだったら簡単に体重乗せられるしさ、いい案でしょ?」

ルミとマリが「へー」と納得する。ルミが真面目な顔で言う。

「コーチ、正直言うと、直木賞とったっていうけど、あたしそれ知らないし、ジムじゃユー子ちゃんの谷間ばっかり見てて、「この人、ほんとにだいじょぶなのかな?」って思ってたけど、やっぱりちゃんとした人なんですね」

コーチ、驚く。

「えぇぇ?オレ、そんなに谷間ばっかり見てる?」

ルミとマリ、真顔で言う。

「見てる」

「すげー見てる」

マリがダメを押す。

「だーから「ダメだよ」って言ってるでしょ?」

コーチ、残念そう。

「我慢してんだけどなー。でも、好きなモノしょーがないんだよなー」

マリが明るい笑顔で言う。

「でも、これでみんなコーチのこと見直すよ。「かみのひだり」作戦、すげーっす」

コーチ、首を左右に振る。

「ダメだよ。みんなに話しちゃ」

ルミとマリ「えっ?」と、ちょっと驚く。コーチが続ける。

「どっから話が漏れるかわかんないからさ。こっちが色々やってるように、あっちもやってるだろうからさ。これはマル秘作戦」

ルミとマリ、深くうなづく。コーチが続ける。

「キモはね、前に行くステップで体重と一緒にストレート打てることね。コントロールよく。だから、ランニングと縄跳びやって、体幹をいっそう鍛えといて。でも、前も言ったけど、ランニングはやりすぎちゃダメだよ。持久力の筋肉が発達しすぎちゃうから。瞬発力の方が重要」

ルミ、深くうなづく。

「あとはコントロールだな。パンチのコントロール。相手のガードの空いてるとこ抜いてパンチを急所に打ち込まないといけないから。サンドバッグに的つけて、それに打ち込もう。的は毎日動かして」

ルミ、深くうなづく。マリが手をあげる。

「質問!」

コーチが笑いながら言う。

「はい。マリちゃん」

マリが尋ねる。

「「かみのひだり」がはずれたらどーするの?体勢整えるまでに反撃されない?」

コーチがマリを指さす。

「いい質問。その場合は、相手に寄りかかっちゃうっていうか、抱きついちゃうっていうか、つまりクリンチに行くんだって」

ルミとマリ「なるほどー」という顔をして、瞳に尊敬が浮かび始めた。コーチ、それを察して言う。

「いやいやいや、作戦だけで勝てることなんてないぞ。作戦を実行する技術を身につけるんだぞ。油断しちゃダメだ。なにごともそうだけど、油断しないで、毎日コツコツ練習しないと。でも、週5日ね。週2日は必ず休んで。休むのも練習のうちだぞ」

ルミとマリが二人揃って、力強く「ういーす」と言った。

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