見出し画像

読書会と「気づきを与える」

連載の最終回が無事に公開された。新たにフォローしてくれた方ありがとうございます。この創作日記は、まだ創作にはなっていないけど、いずれ数年後くらいに、創作につながるかもしれない考え事を書いているノートです。文章の練習も兼ねてやっています。

----

目が見えない人は世界をどう見ているのか』の読書会に参加した。友人のワダさんの企画。とても面白かったので、そこでの話題の一部を書きたいと思う。

本の中で、障害をもつ当事者同士でユーモアを言うくだりがある。当事者が自身の困りごとを一種の自虐ネタにするのは「あるある」らしいのだが、健常者がそのユーモアを聞いていた時、楽しむだけでいいのだろうか?という話題が出た。困りごとをユーモアとだけ捉えて解決を放棄するのは、当事者に甘えてはいないか?

私は初め「もちろん誰でも自虐ネタは言ってもいいのだけど、ネタをネタとだけ捉えて不便を放置するのは良くないんじゃないかな」と言っていた。
今の社会に風潮としてある「生産性のない人は文句を言ってはいけない」とか、「波風を立てないのが正しい」という事なかれ主義が嫌だったのもあった。しかし、参加者の一人の「ユーモアは健常者・障害者という関係を超えうるものではないか」というお話を聞いていて(うろ覚えなので違っていたらごめんなさい)、だんだんと、なんとなく、自分の偏りに気付いてきた。

私はもしかしたら、マイノリティを「マジョリティに気づきを与えてくれる存在」として捉えていたのかもしれない。

「人に気づきを与えるために存在する人」はいるだろうか。いないと思う。気づきを与える仕事をしている人はいるかもしれないけど、その人も普段は普通に人として生きている。私はつい「マイノリティに失礼なことをして怒られたらどうしよう」と思って視野を固定化していたのかもしれない。そしてそれはマイノリティ本人とは関係がない、こちらの自意識の話である。

弱者でもクレームを言っても良いし、クレームとして言われた場合はそのように受け取るのがいい。でも、ユーモアとして言われた場合は、面白かったら笑うというのが素直なコミュニケーションなのではないか。その上で気づくのは自由にすればいいけど、人が「気づきを与えてくれるためにいる」というのは何だか上から目線だ。

このようにして、自分の思い込みに思いがけない方向から光が当てられるのは、他者と一つのテーマで語り合う醍醐味だと思う。

他に印象に残った話は、「想像力は無くていいんじゃないか」というもの。想像や思いやりが大事だと言われているけど、想像も、思いやりも、こちらの頭の中で起きていることだ。それが当たっているとは限らない。想像するよりも聞けばいい。

----

著者の伊藤亜紗さんによるインタビューも面白かった。本書の末尾でURLが紹介されている。「障害」と聞けば「どう解消するか」と私などはすぐ考えてしまうのだけど、解消する方法がなく、人生の残りの時間ずっと伴走するしかない障害もあって、そういう事実は軽くこちらの想像を超えてくる。想像を超えた事実に出会うとき、いつもしんとした気持ちになる。

----

連休のせいか日頃の不摂生のせいか、すっかり生活のリズムが乱れてしまった。夜は眠れないのに、昼間の寝ても寝なくてもどうでもいい時にうとうと寝てしまう。そしてより生活リズムが崩れる。眠りは意識すると全然うまくできなくなるのはどうしてだろう。そして、寝なくてもいい時に寝る眠りはどうしてあんなに気持ちいいのだろう。


この記事が参加している募集

読書感想文

サポートありがとうございます。とっても励みになります。いただいたお金は、描き続けるための力にします。具体的には、東京の勉強会への交通費とか、おいしいものとか‥です。