桜の森の満開の下ー2024/04/01 #7

朝はまだ蕾だった近所の通りの桜が、夕方帰ってきたらぶわっと花開いていた。咲きはじめるとあとは早くて、あっという間に散ってしまう。週末まで保つだろうか。

多くのひとがそうおもったのか、先週末に子どもと散歩へ出た近所の公園は「花見」する人びとで大いに賑わっていた。
NHKニュース7も、目黒川は花見客で賑わっている、と伝えた。桜の花は殆ど咲いていないのにもかかわらず、だ。

久しぶりの良い天気で、桜とは関係無く外へ出かけたくなる陽気ではあった。が、花見で賑わう、と云うのは欺瞞ではないか。僕はニュースや世のなかの空気に疑問を抱いた。

そのことを妻に云うと、
「もう予定を組んじゃってたんだから、仕方ないんじゃない?」
と世間を擁護する姿勢だ。またサヨクの夫が面倒くさい難癖をつけている、とでもおもっているのだろうか。

予め組まれた計画。たとえ現実が伴わなくても、そんなのは瑣末なことで、予定こそ優先されなければならない。まるで公共事業みたいじゃないか。おかしいとおもっても、止めることができない。経済という名の金儲け、或いは効率が何より優先され、停滞など許されない。さいきんは、そう云うことが多すぎる。

と主張する僕へ、
「花見なんて集まって出かける口実で、咲いているかどうかは重要じゃない。みんな呑んで騒ぎたいだけなんだ」
と妻は云う。僕の云う事は何であれ気に喰わず、兎に角反発する事にしているだけかもしれないが、だとしても一理ある意見だ。

口実。タテマエ。昨今は建前を軽視しすぎではないか。
予定、効率、経済、スピード。それら本音を優先する余り、タテマエは後方へと追いやられ、世間はそれを歓迎すべきこととして受け入れているように僕にはおもえる。
けどタテマエってやっぱり大事なんじゃないか。

日本の伝統芸能は、様式という名の建前を何より重視する。茶の湯、能、和室、庭。美は建前に宿る、と云っても過言ではない。それらの美意識は、日本人の勤勉さに直結する。戦後の奇跡のような高度経済成長は、建前を重んじ、間違いを許さない丹念な事務仕事によって支えられていたと云っていい。

それがいまはどうだ。
効率を重視した結果、手続きは蔑ろにされ、予定や自説を強引に押し通す。議会は軽んじられ、閣議決定が優先される。差別を無くそう、と云う至極真っ当な正義は、キレイゴトのタテマエとして厭われ、憎悪とヘイトを撒き散らす政治家こそがホンネの分かってくれる代弁者、我ら弱者の味方としてモテ囃される。停滞を招くからと云って、原因究明や責任追及は後回しにされ、やがては有耶無耶になる。
桜を愛でる余裕は、そこに在る美とともに失われてしまった。

もうみんな忘れてしまったかもしれないが、この国はかつて、勝ってもいない戦争を、勝っていると囃しつづけて滅亡しかけた事がある。
咲いてもいない桜を、咲いていると云って騒ぐ。賑わってるんだからいいじゃないか。水を差すような事云うなよ。
ほんとうにそれで良いのだろうか。僕はあの目黒川のニュースを観ながら、戦前の空気のような薄ら寒さをかんじている。それは今朝また気温がぐっと下がって、寒の戻ってきたせいだけではないだろう。

と僕は本音を妻へぶつけようとするが、
「お腹がすいた!」
と子が騒ぎはじめたので、僕らはふたりしてその世話に取りかかる。

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