エルレガーデンの新曲

 四年前(四年前!?)のQVCでのライブに行ったときよりもずっと強く「復活したなあ」という実感があった。いい曲。もっとハイテンションな曲を予想してたので落ち着いたテンポが意外だったしまたこんなに失くしたところから始めるのかよと思ったし、そこに、当然だがわたしの想像の範疇を超えたバンドの姿、喧騒を、コマみたいにすごいスピードでぶん回して振り切ろうとか、思い出のざわめきの中を手さぐりするよりも、いちめんの静寂の中心にぽっとマッチで火をつけて、それがめらめらと燃え広がっていく、自分で焼いたものをことごとく抱え込みながら、そういう感じがした。これも当然のことだが活休前のエルレとはぜんぜんちがい、そのことをいいとか悪いとか言えないがうれしくもさみしくもあり、でもやっぱり好きなバンドが新曲を出すのは嬉しいことだ。
 なんというのか。水のいっぱいたまった水槽の栓を抜いたら水はいっしんにそこへ集まって埋めようとする、が埋まらない、エネルギーだけがまわりをことごとく巻き込むほど渦巻いて、でもやがて消え入ってゆく、消えてしまうのがはじめから予感されている。欠落をおぎなおうとすればするほどそうなるものと思う。エルレを駆動させているのはそういう渇きだとわたしは思っていたしそこがもう焼けるようにせつなくて恋しかったけど、もう今は違うんだね。わかんない、違わないかもしれないけど、表出のしかたは明らかに変わっている、新曲好きかと尋ねられたら好きだと答えるけどそう答える瞬間ごとに喉元になにか固いものが込み上げているような感じだ。でもそれはネガティブな感情ではない。
 他人には絶対に理解してもらえないこととかしてほしくもないこと、逆にどれだけ大好きで理解したくてもできない他人てのがあって、それがあるということを、エルレの曲というよりも(そう言っていいかわかんないけど)エルレのあり方自体から理屈ではなく、つまり、痛みとして受け取っているのかもしれない。自分と重なっても重なってるだけで思い通りにはならない、その引き剥がされる痛み、つまり、おれは活休前のエルレを知らないことで未だにちょっとだけ疎外感があるし、歌詞を聴いて「燃え尽きたい」って言われたら素直な反応としては「そんな」って思うけど、おれのいうことを聞いてくれと頼みはしないし、仲間に入れてほしいけど誰を大事にしようがむこうの勝手だし、そういうあなたの生き方が好きでまとめるのもちょっと嘘で、つまり、わたしの望む望まない好き嫌いにかかわらず燃えながら生きているエルレ、今生きてるエルレがまるごとそこに立ってんだと思った。わたしの好みや願望なんかに包摂されないエルレ、一言でまとまらないエルレ。痛みが悪でなくもしかしたら負でもないのを重なっては引き剥がされてちょっとずつわかってきた年月だったのかもしれない、彼らが別の世界の人だなんて考えないけど、わたしに見えず彼らに見えるものは確実にあり、でもその何かを眼差している目の光りはものすごく強くわたしにも見えていて、音楽を通して聴こえていて、だからというか、わたしにとってはそれが今はいちばん大切なことの気がしている。嬉しい。生きててよかったです。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います