RADWIMPSの愛のこと

 去年の夏、「ANTI ANTI GENERATION TOUR 2019」の最終日に行ったとき、びっくりするぐらい泣いた。ラッドのライブは何度も観ているが単純に「かっこいい」「たのしい」「すごい」という感想が大半で、涙が出るようなことはほぼなかったので驚いた。同時に、納得がいった。ラッドがずっと歌おうとしてきた「愛」のかたちが、ようやくはっきり見えたと思ったからだ。

 ラッドの「愛」は特殊だった。少なくともわたしにはそう思われた。「君」という二人称で歌われるその対象は、人間離れして美しく描かれていたし、「僕」にとっての世界をまるごと担う神の相貌をもっていることも少なくない。

だけどそんな僕
造ってくれたのは 救ってくれたのは
きっとパパでも 多分ママでも 神様でもないと思うんだよ
残るはつまり ほらね君だった(me me she)
だって君は世界初の肉眼で確認できる愛 地上で唯一出会える神様(有心論)
君の瞬きのたび 世界は止まる
耳をふさぎ込むたび 世界は黙る
君の瞬きのような命だけど
この世界は 君のその手の中(救世主)

 言ってしまえば「重いな」と感じていた。ときに盲目的なほどの「愛」への信頼が、何を根拠にしているのかがぜんぜんわからなかったので、かわいいとかいい曲だなとは思いつつも共感できないでいた。「恋」と「愛」にそんなに区別がないようで、「愛」をもてあましているようだったのも一因である。「君」ひとりに注ぐには、ラッドの愛はあまりにもスケールが大きかった(別れた恋人に「君の遺伝子が」などと言われたらどんな気分だろう?)。だからあんなに一神教的に聴こえてしまったのではないだろうか。
 「狭心症」や「おしゃかしゃま」や「DADA」のような、社会やそれをつくる人間への懐疑に満ちた曲の鋭さのほうが、わたしは好きだった。それとラッドの「愛」とが、わたしのなかでは結びつかなかったのだ。たとえば、「狭心症」で表象された「神」は、「お前、完璧なんだろ?全部見てるんだろ?じゃあなぜこの世はこれほど不平等で汚いんだ」と問いつめることで、社会の暴力性を露わにするためにあった。しかし一方で「救世主」では、自分の愛する唯一の存在を「神」のように信仰したりもした。この乖離はなんだろう。人間を嫌っていつも顔をゆがめているのに、「愛」についてだけはばかみたいに純真な目で語る青年。危なげな、屈折したイメージがあった。

 そこにはっきりと変化を感じたのは、アルバム「×と◯と罪と」の「アイアンバイブル」を聴いたときだった。このアルバムはものすごく豊かな可能性に満ちていて語りたいところは多いが、とりわけこの曲は重要な位置を占めている。

拝啓 次の世を生きる全ての人へ
我らの美談も 悲惨なボロも いざ教えよう
次の世こそは決して 滅ぶことのない世界に
どうか我らの愛すべき 鎖を止めないで
世界の終わりの その前の日に
産まれた赤子に それでも名前をつけるよ 僕は

 連綿とつづく人類の歴史への視点は、それまでとはあきらかに一線を画す。「美談」と「悲惨なボロ」とを分かたずに「我ら」のなかに統一し、すべてを「愛すべき鎖」と呼ぶ、人類愛的な態度だ。しかし集団だけを見るのではなくて、「世界の終わりの その前の日に 産まれた赤子」という限りなくはかないものに、「それでも」、個としての確かな存在と未来を認めてもいる。
 ラッドは、とりわけ野田は、自身で何度も語っているように、震災に大きな影響をうけたひとりだ。毎年3月11日に曲を発表し続けていることからも、その影響が彼らのなかで持続しているのがわかるが、そういう直接のかたち以外にもっと深部でも変容があったのだろう。「アイアンバイブル」は、「それでも」人は産まれ、生きて鎖をつないできたのだという事実と、そこに加わっている自らの発見だった。つまり、人間の力の発見だったともいえる。ユーモアをたっぷりまじえてたのしげに歌われるこの曲は、決して深刻ではないが、そうすることで失望や諦めや冷笑や揶揄をかたく拒み、暗さをじゅうぶんに見つめたがゆえの、明るく健康なエネルギーに満ちていた。ラッドはここで、懸命に、人間を信じようとしている。「愛する」ではなく、「愛すべき」なのだ。超越的な創造主たる神には頼らず、責めることもせず、いまを生きる人間じしんとして、自分たちの美しさも愚かさも、すべてを積極的に受け入れ、愛していこうとする。目をみはらせる変化だった。

 そして2019年、「愛にできることはまだあるかい」を聴く。
 ラッドが歌おうとしていた「愛」の、完全なかたちは、こういうものだったのではないか、と思わずにいられなかった。二極化していた人間への思い、懐疑と憎悪、希望と慈しみとが、渾然として高らかに響いている。「僕の全正義」の基準となった「あの日の君」の勇敢な姿は、信仰の対象になることはなく、むしろ「愛」を信じるゆるがない根拠としてある。「君」に愛を向けることは、断絶と諦めのただよう世界へともに「立ち向かう」ことになり、「愛にできること」そのものを信じることになる。「僕」と「君」という個の関係が、「愛」を介して「僕ら」へとダイナミックにひらかれてゆく。

何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか
なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい
答えてよ

 反駁し続けた神に、「答えてよ」と、今のラッドは呼びかける。もがきや執着を、夢や希望と名づけて追ってきた僕らに、意味はあるのか、と。神からの返答はない。必要ではないのだ。「僕」はみずからこう答える。

愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ

 讃美歌のように響いた冒頭に、ただひとりのつぶやきとして、静かに応答する最終節。これは祈りだ。皮肉でも空虚な断言でもない。愛は尽きたのか。そんなはずはない。醜くてもきれいでも関係なく、誰に求められたのでもなく、「それでも」僕らは生き、愛する。それ自体は無意味なそのことに、意味を創りあげていくのは僕ら、そして「僕」だ。すべての「僕」のなかにあるはずの「愛」を、それへの信頼を、ラッドは目覚めさせようとする。
 人間嫌いに見えたのも、ばかみたいに愛を信じていたのも、おなじラッドだった。彼らが投げかけてきた人間への疑いは、それだけ大きな期待の裏返しだったのだろう。「愛にできることはまだあるかい」が、わたしの中では分かれてしまっていた彼らの曲たちを、相互にむすびあうものとして包みこみ、そこに浮かぶやわらかさを見せてくれたのだった。
 いまがどんな時代なのかを、ここであえて書かない。曲中でもじゅうぶん歌われているしもうみんな聞き飽きたと思うからだ。ただその世界でラッドは決断した。「勇気や希望や絆」などという、あのゆがんだ顔の青年なら唾を吐いたにちがいないものを、いまのラッドは「魔法」と呼び、使い道もないまま言葉だけが使い古された不遇を痛みとしてうけとめ、よみがえらせようとしている。それについて誰より悩んできたのは彼ら自身だったのかもしれない。人間の内にあるひずみや暴力性を見続けてきたからこそ、いま、ラッドの愛は強い。神に与えられるものでない、「僕ら」の希望だ。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います