書いたのがあなたでなくてもよいが、あなたでなければ書けなかった

 書いたものに書き手の属性をくっつけることは内容にたいして必然でないかぎりやめたほうがいい。たとえば学歴。「東大生が曲解説」というようなタイトルのブログを見てからずっと考えていたことだ。「東大生」って、いる?中身を読む前に「東大生のいうことだから正しいんだろうな」という先入観をもってしまう。書かれたものの価値は中身で決まるのに、読者がそこへたどり着く前に外的に権威づけられている。人によるちがいが認められる「解釈」じゃなく、一方的に教えるというニュアンスの「解説」なのもそういうことだろう。

 だれがなにを書いたっていいが、書くという行為のさなかでは、最も優先されるのはことばであって書き手自身ではない。内容が自分についてであっても、書くなかでは書き手は書き手でしかない。肩書きが書くきっかけになる場合はもちろんあるが、そこに終始すると、同じ囲いの中にいて、無言のうちに汲み取ってくれる人にしか伝わらない。ことばの自立性を削ぎ、自分に従属させてしまう。届くはずの人にも届かなくなる。それはすごくもったいない。

 肩書きが役に立つ場合もある。ここでいっている「文章」は「情報」とは違う。「情報」は、正確さ、万人からの信頼が求められるので、出どころはとても重要になる。
 たとえば未知の疫病がはやったとする。症状、予防法、感染したときの対処法などを知りたいときは、ネット上の素性の知れない人よりも、感染症専門医の意見をあおぐだろう。また、感染者数、死亡率といった情報がほしいときも、週刊誌などより県や厚生省が出したものを頼ると思う。発信する立場からして、速く、かつ多くの読者に信じてもらわなくてはいけない場合は、正確な「情報」を得る能力のある書き手であると、「この人が言うなら確かだろう」と認められる肩書きは、効果的だし必要でもある。
 余談だが、これを逆手にとった例もある。「文系女編集者がわかるまで感染症医に聞いた「マスクが新型コロナ予防にならない」理由」という記事。このタイトルが「文系の女をばかにしてる」と批判されたらしく、たしかに「女」はいらないかもしれないが、わたしは感心した。「文系」「編集者」はつまり「感染症に詳しくない書き手」のことで、したがって、同じように予備知識がない読者にも理解できる内容であることを端的に示しているからだ(じっさい丁寧な記事だった)。それが結果的に情報の普及に役立っただろう。書き手の属性をつかって情報の価値をうまく伸ばしたよい例だった。

 もちろん「文章」と「情報」とは、はっきりした境界があるものではないし、重なる部分もある。最大の共通点は「伝えたいことがある」ことだ。その目的を達成するにあたって書き手の属性が、前者には邪魔になる場合が多く、後者では役に立つ場合が多いということだ。

 では「文章」がひとに伝わるとはどういうことなのだろう。もちろん「文章」にもいろんな形式があるが、強引にも「文章」とまとめたのは、論文でもエッセイでも、共通して立ち上がってくるものがあるからだ。
 「文章」は「情報」のように、できるだけ速く多くという方向性を持ってはいない。誰もがすぐ理解できるような正しさも求められていない。的確さ、わかりやすさ、表現の巧みさといった技術的な部分は、必要ではあるが感動の直接の原因ではない。文章を読んで感動することには、ほんとに場合の数だけ種類がある。ほっとした、うれしくなった、悲しくなった、だれかに会いたくなった。いろいろだ。どれも「伝わった」「わかった」という経験だろう。頭で理解することと感覚でつかむものとが、無理なく一体になったとき。自分とはまったくべつの誰かが書いたもののなかで、あたらしくまた懐かしい自分と出会ったとき。これを共感と呼んでいる。ただ、どんなかたちの共感だとしても、少なくともその一瞬は、自分が、また書き手が、社会的にどんな立場にあるかなどということは、忘れ去られているだろう。読み手に届くのは究極的にはことばだけで、誰がいったのかは問題ではない。書き手の肩書きが邪魔なのはそういうことだ。
 また、書き手が自分をあらかじめどこかに分類して書くことは、書き手自身にとっても損失になる。そのカテゴリの中にみずからが非個性的に解消されてしまうからだ。つまり、「〇〇だから書く権利がある」というのを前提にすると、「〇〇の人なら誰でもいい」、すなわち「〇〇でなくなったら書き手としての価値がない」ことになるのだ。従属させようとしたことばに逆襲される結果になる。 

 もちろん、職や年齢や性別やそれまでの経験など、社会的な要素が、人格にもことばにも影響するのはまちがいない。でも、それがすべてじゃないだろう。「こういう仕事だから」「性別がこうだから」「何歳だから」に還元されない、理由も善悪もつけられない、そのひと自身の存在があるはずだ。そういうものこそ、社会的な立場にかかわらず、個人を個人たらしめる核になる。感情はそこから湧いてくるのではないだろうか。
 書きたい欲望は、何よりもさきに感情からの呼びかけであるはずだ。だから、内容や形式がどうであれ、目に見える形で出てこなくても、文章には書き手の人格が含まれる。語り口、句読点の打ちかた、仮名の使い分け、語の選択を、考え、推敲し、どうすれば伝わるかを探ってゆくなかで、ことばのすみずみにまで神経がはりめぐらされる。最優先されるのはことばだといったが、書き手が伝えたいことに忠実になって書き手に徹するとき、おのずからことばには書き手の存在がかけられ、感情の血がかよう。書き手は、ことばを優先して自分を振りはらうことで、じつはいちばん自分自身になっているのだ。

 文章なんか練習すればだれだってうまくなるし、題材もそこらじゅうにある。わたしが何かを書かなくても困る人はいない。それでも書きたいと思い、書く理由は、決して人と同じでない感情があり、それぞれを通してしか現れないことばがあるからだ。
 よい文章とは、タイトルにも記したとおり、「書いたのがあなたでなくてもよいが、あなたでなければ書けなかった」、そういうものだとおもう。書かれたことばが、書き手をまったく離れたところでだれかを打つとき、そこにはおそらく、書き手のもっとも根源的な価値が現れている。書き手がこの先どんなに変わろうと、また今どんなにだめな人間であろうと、ことばと一体になった人格が他者を打ったことの価値は揺らがない。

  できるだけ良いものを書こう。性別も年齢も職も生い立ちもすべてを背負いながら、そのうちのどれにも重ならない場所で、自分と、ひとに出会うために、書き、また読むことを、続けている。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います