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風の記憶、時の雫

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note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
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2020年9月の記事一覧

見えない夕陽のあたる車窓

ぬれた線路の上を 決められたダイヤの通り走る 泣き止んだ空は 雲の背後に美しい夕陽を隠したまま 何も言わない 今日の昼間の終わりの言葉も 明日の予定も語らず ずっと沈黙を続けている 明日は十五夜だと いうことにも触れぬままか いくつもの駅を過ぎたろう 無人駅もあった 降りていく学生は楽しげに笑い 先まで行く学生は 参考書を広げて笑いもしない ダイヤの通りに走るもよし 降りて自分の道を歩くのもよし 長い間問い続けてきた 解はどちらでもいい 自分で選んだのなら 確実に駅

縁と向き合う姿勢

基本的に無駄な縁というものはない。 無駄にする縁というのはあっても。 自分の向き合う姿勢で縁というものは 大切かどうかが決まるように思う。 それがいつ生きてくるか、 そのときにはわからなくても、 自分が必要としているときに不意に出てくる。 そういうものかもしれない。 それなりに人生の年を重ねてくると、 そう思うときが結構あるものだ。 そのためには、日頃から縁を大切にすること。 日常的な縁の中にも 必ず生きてくる縁というものがあるから。

ただ一つ

あのひとの心がしりたいと いつも思っていた 寝ても覚めてもあのひとを思っていた どんな言葉をかけて反応を見ようが どんな表情の向こうにある心を読もうが 必死であのひとを追いかけた たくさん観察を経て 多くのデータを得たけれど 何一つ あのひとの心はわからなかった わかったことは唯一つ 得られたものも唯一つ 自分の心がわからないということだけだった

77777

昨日、すこぶる嬉しいことがあった。 写真を見ればお分かりになると思うが・・・ ぞろ目のキリ番ゲット! それも「77777」ですぞ。 ついに、この時がきたのでした。 今まで何度となくチャレンジしたけれど、 キリ番を、変わるその時を逃していました。 そもそも、キリ番間近に気づいたのは一昨日。 それからというもの、 車に乗るときはもうドキドキでした。 ちょうど数字の変わり目も目撃しました。 そして、すぐ道路の脇に停めて写真を撮りました。 幹線道路から枝分かれした田舎道なので

君を信じている

いま生きていること 生きていると感じられること 悲しみも苦しみも 生きている証だから 生きていることがつらくても 大切な未来の糧になる もしも挫けそうな日が訪れようと 手を差し伸べて 抱きしめてくれる愛がある いまは気づかなくても 君は確実に未来に向けて 流れる時に導かれているから いまを忘れない いつか微笑みをたずさえた未来が きっと君を包みこむ 未来は君を信じている いまは信じられなくても 希望を失わない限り 未来は君を愛している

星よ

星空を見よ 天の意思が見えるだろう 目を逸らせてはならぬ 耳を閉ざしてもむだだ 天は心に語りかける 人間の良心に直接問うのだ 星空を見よ 正視するのだ 地球人よ あまたの星に嘘はつけぬ

ともだちって何?

小・中学生の頃の「友だち」は ぼくら大人になって思う「友だち」とは 重みも意味合いも少し違います。 子どもの頃の友だちは、自我形成期の 友だちなので、心に占める割合が非常に大きい。 友だちという存在が、 自分が成長していく上で非常に大きいのです。 大人になって思う友だちは、 多少の揺らぎはあるにせよ、 すでに自我が出来上がっている中で思うので、 友だちの存在感が人生を左右するほど 大きくなくても自分を保って入られます。 同じ友だちという言葉を使いながら、 そこには隔たり

大人になりきれない大人

どうにもこうにも僕は大人になりきれていない。 女々しいほど引きづっている、君のことを。 思い出にしてしまえればいいものを それができずに 時間を手繰り寄せることばかり考えている。 なんなんだろうね。我ながら呆れることもある。 いつまで引きずるつもりなんだろう。 いい大人なんだから、 さっさと次の出会いを探しに行けばいいものを。 笑っちゃうね。 どうにもこうにも僕は大人になりきれていない。 子どもが抱くような疑問が抜けきらない。 流してしまえばいいものを それができずに 納

秋分の日

今日9月22日は二十四節気の「秋分の日」。 雑節の彼岸の中日になります。 秋分の日といえば、 昼夜の時間の長さが同じと覚えていますが、 実際は昼のほうが少しだけ(約8分)長いのです。 正確に同じになるのは3日後の26日です。 ちょうど秋のお彼岸明けの翌日にあたりますね。 秋のお彼岸を過ぎると次第に夜の時間が長くなる ことから、陰の半年が始まると考える人もいます。 陰の半年とは次の春分の日まで半年間です。 秋が深まり、長い冬を経て春になるまでという わけですが、これはただの

なにもしたくない1日

一年のうちには何度か、 何もしたくない1日という日がある。 ただ少しばかりの秋風に吹かれていたい。 ただ寝転んで澄んだ蒼空を見ていたい。 そんな1日が今日だった。 暑くもなく、寒くもなく、 ほどよい太陽の温もりが注いでいる。 蒼空はまぶしさを抑えて、 穏やかな時間が過ぎていくのも心地よい。 そんな1日が降りてきた。 ざわつくこともなく、騒々しいこともない。 何もしなくても誰も責めはしない。 何もしなくていい1日。 何もしたくない1日。そう決めた1日。 この素晴らしき1日、

触れる

秋は手に触れたか 秋を目で見たか 私は手に触れたものしかわからない 私は目で見たものしか信じられない あなたに触れた瞬間に あなたは存在した 私は自分で書いたものしか届けられない 私は直接訊いたものしか信じられない あなたはここにいて 私のなかで存在として生きた 確かな存在があって 言葉は生きる意味を持つ 私が触れた言葉ぜんぶ あなたの存在に紐付いている

繊月

秋分を間近に控える 秋の空 夏の勢いやわらかに 鳴く虫の声 風さわやかに 乗り行き届けば かすかに揺れる彼岸花 仕舞ったままの儚き記憶 あなたの姿が浮か夕暮れ   秋晴れの今宵   細い月が去りゆく夏を思うて   涙するでしょう 奏でる音色にあなたを思ひ 早いとばりに潤む月 好機は今宵とばかりに 心に響く

イミテーションではない自分

人は本物を見て、 本物を体験して、 本物の価値を見いだすものだ。 もっとも人の成長を促すのは本物。 一流に接すること。 これに尽きる。 どれだけ精巧なイミテーションでも 本物にはかなわない。 本物には本物にしかない核のようなものがある。 あるいは本物が持つオーラのようなものだ それを持つ人になる。 他の誰でもない本物の自分になるために。

悲しみよ

ずっと前から傍にいたように 悲しみは寄り添うようにうなずいた 僕がどうして悲しんでいるのか すべてお見通しで 何も言わずにただ寄り添っていた 悲しむ理由はあったはず 時間とともに悲しむことが理由になった 元の理由などどうでもよくなる 寄り添う悲しみが このままいることで心は落ち着いてきた 悲しみは 悲しむ理由を思い出に変える ひとつ一つの断片を記憶の箱に仕舞い込む 箱には鍵をかけないで 思い出を取り出せるようにしてくれた ずっと子どもの頃から 同じようにしてきたことを思