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風の記憶、時の雫

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note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
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2020年3月の記事一覧

花明かり

桜は夜にもその美しさを愛でることができます。 夜にほんのり明るく、周りを照らすような 美しさは昼間に見る桜とはまた別の趣きです。 白に近い淡いさくら色がそうさせるのでしょう。 満開の桜の「花明かり」には 心を惹きつける力があります。 最近は桜の名所ではライトアップすることで それを強調する向きもありますが、 それはそれで綺麗なのですが、 演出過剰にも思えるときがあります。 というのも、桜はそれ自体が自ら光っている ようにさえ感じることができるからです。 もう少し自然に夜

空にさくらが咲くとき

ある日、お昼前には 初夏を思わす陽気になった。 川沿いに自転車散歩の道すがら、 河岸に咲く桜はほぼ満開になっている。  桜が空を引き寄せる  風が桜を縫いつける ここは視界が広く、深く見える。 電線がほとんど見えないから 空は遠くまでつながっている。 空を切る電線はない。 無機質なビルもマンションもない。 ノイズだらけの都会の空はない。  梅の花は春を告げ  桃の花は春をつなぎ  桜の花は春を満開にする 奇跡のような花咲く空に出会う日 仰ぎ見る視線の先に 春が未来を

非日常と平常心

日頃は戦争のことは考えたくもない。 けれど、未知のウイルスに襲われたときなど 人間社会がかつて経験したことのない 得体の知れない戦いを臨まれたとき、 私たちの社会は一変する。 極めて過酷な非日常的な試練を強いられる。 このような社会的な緊急時を目の当たりに、 何ができない、これもできないと やけになる気持ちは理解できても、 そのままの状態になることはない。 大変なときに平常心を失ってオロオロしたり、 煽られたり、自分で考えて行動する基本を 忘れると得るものより失うものが多く

車窓

電車に乗っているとき 進行方向が見える側の座席に座るか その逆側の座席に座るか悩む 9:1の割合で進行方向が見える側に 座ることが多いのだけれど 稀に逆側に座ることもある 進行方向が見えると未来景が やってくる感がする 逆なら過ぎていく過去景が見える そのときの気分もある 今より先を見たいとき 済んだ今を見送りたいとき どちらであっても車窓から見える景色は 心の内面を映し出す 私は今を原点としてどこを見ているのか 私は今を起点にどこに向かいたいのか 見慣れた景色であ

「間」を良くする

運がいいとか悪いとか、いろいろ言うけれど その正体はタイミングだと思う。 タイミングが悪いと何をやっても事が上手く 運ばない。そういう経験は誰にもあるだろう。 ではタイミングを良くするには どうしたらいいのだろう。 誰でもできる一つの方法は、ルーティンを守り 毎日きちんとやることである。そうすることで 何が変わるかといえば、自分だけでなく 周りも含め状況がわかるようになる。 いちいち細かいことを気にしなくても状況が つかめる。そうすることで、 タイミングは大きなつかみをす

言葉を持っていないのは誰だ

いつからか、日本の官僚たちの質の低下を いわれるようになった。 それは官僚たちが使う言葉からも見てとれる。 しかし、官僚以上に言葉を持っていないのが 政治家ではないだろうか。 だから官僚が作ったペーパーをそのままに読む。 もともと官僚は自分のところに責任はない、 責任は他の要因だというスタンスで言葉を 操るので、そこに責任を取る姿勢は現れていない。 政治家もそれでよしと思っている。 首相をはじめ大臣が「責任」という言葉を よく使うけれど、「責任」という言葉を 考えるに重要

生きることの苦さ

生きることの苦さを 味わったことがあるだろうか 決して甘美ではなく爽やかでもない もがき苦しむような苦さを 生きることは含んでいる 楽しいことも嬉しいことも 数えきれないくらいある その中に紛れ込んだ苦さは 強烈な辛さよりも長く残る まるでクスリのように 日々生きていればつらいことも 悲しいことも降りかかる やり場のない怒りも独りの寂しさも 予告なしにやってくる まるで生きる価値を奪うように あれもそれもこれも 苦さに包まわれて旨味となる 生きることの苦さは誰にもある

彼岸桜

今日は二十四節気の「春分」 春彼岸の中日が今日の春分の日になります。 暦の上では春分の日から春本番の暖かさを 感じる頃になるわけですが、 今年はすでに平年より早く春めいています。 春分の頃に咲く桜は彼岸桜と言います。 エドヒガン(江戸彼岸)とも言いますが、 ソメイヨシノの親に当たるそうです。 でも今年はエドヒガンに限らず、 ソメイヨシノも各地で早咲きしていますね。 花見の時期が前倒しになる様相ですが、 新型コロナウイルス感染拡大によって 自粛を要請されています。 それを知

きれいごと

「そんなのはきれいごとだ!」 何かと言うとこういう人がいる。 その裏には、俺は深い意味を知っているんだ という顔をする。 そんなに物事は単純じゃないと批判さえする。 でも私は思う。 「そんなことはきれいごとだ!」と いう人がいれば、 「きれいごと」も言えないほどあなたは 心が貧しいのですか?と。 場合によっては、 面と向かって言ったこともある。 「きれいごと」とは、人や世の中の汚いことや 闇を見ないで言っているのではない。 それらを見てもなお、 その先のより良き世の中を

日差しやわらかに

日差しの中を泳いでいく雲よ 地上にうごめく人間の上に影を落とすか それとも人間など気にも留めないか 悠々とした泳ぎのように見える雲よ 窮屈な決まりなどないのだろうな それとも空には空の決まりがあるのだろうか 雲の自由さを羨むのではない 日差しと風の誘いを欲するのではない 人間には人間のルールがある 地上には地上の自由がある 不自由な思い込みは自由を縛る罠だ どこかで罠に落ちた人間の叫びかもしれない 季節が移り変わるのは 季節が一様ではないことを教えてくれる 常に変化を

お彼岸の記憶と意味

今日、3月17日は彼岸の入り。 子どもの頃はお彼岸のことがよくわからなかった。 ぼたもちの印象しかない。 お墓参りもしたけれど、食べることの方が勝っていた。 でも「ぼたもち」と「おはぎ」の違いを知ったのは もっと大きくなってからだと思う。 子どもの頃は春も秋彼岸も「おはぎ」と言っていた。 そんな記憶が小豆の甘い香りとともに残っている。 お彼岸になると仏壇に供えるためにたいていは 祖母がつくっていた。それもかなりの数を。 子どものおやつも兼ねていたわけだが、 事実これが旨く

生意気

「生意気」という言葉には、私自身は それほど否定的なニュアンスを持っていない。 往々にして、男性が女性に対して、 生意気と評する場面がある。その時は、 たいていはその男性はその特定の女性に対して コンプレックスの裏返しである場合が多いものだ。 私は性差に関係なく、そのときの優れた方が リーダーになればいいと思っている。 リーダー論に性差を持ち込むのは機会損失になる 場合が多い。 ただ、偏りがないようにする必要はあるだろう。 これは男女の比率で解決できるものでもない。 バラン

春束

春を束ねて あなたに贈る 閉ざしたまま 部屋を出ないあなたに贈る 集められるだけの春を束ねたら リボンをかけて あなたに届けよう あなたは春束を受けとってくれるだろうか あなたはリボンを解いてくれるだろうか あなたは春束に秘そませた メッセージを開いてくれるだろうか 何があなたを閉ざしているのか わたしにはわかりようもないけれど あなたが行き場を失いかけている 不安は感じるから急いで春を摘みに来た いま集められるだけの春を束にしたら 抱えた腕の中は 色とりどりの花に薫る

創造と表現

彫刻家は切り出された石や丸太を見て、 掘り出されるのを待っている像が浮かぶという。 頭の中で像は見えているのだ。 太宰治は“頭の中にすでに文章ができあがっていた”という。 自分にそれができるか? 物語や詩の全体のイメージはできることはある。 けれどそれを原稿に書き出すとどうも違うことが多い。 なかなか思うままに表現するとはいかないものだ。 でもデジタルネイティブ世代の人たちは それができるという人もいる。 アナログ世代の自分には到底まねできない早さで 文字を打っていく。